高齢者・がん患者がひとり住まいしたいとき、どうすればいいだろう

いつも通りに暮らせるかどうか、そのヒント

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父が他界したあと、がんの切除手術を受けた母が、どんなふうにひとり住まいを続けようとしたか、私自身にも “もしかしたら” の将来のヒントになることがあるかもしれない… そんなことを思いながら、母はどんなふうに過ごしたのか、私自身はどんなだったかを備忘録してみようと思っているのですが・・・

健康な高齢者にもできればこんな支援を… と思うことや、それだけではちょっと不安だからと、母自身、そして私たち子どもも協力したことにどんなことがあったろうとあげてみると、その種類が意外と多かったことが分かります。

少し整理してみても、

  • 医療
  • 介護・介助
  • 公的な支援
  • 自助努力

というような感じです。

そして感じるのは、がん患者だから大変だったということではなく、少し落ち着いて見まわすこと・準備することができれば、支援を受ける道は身近にあるのだ… ということです。

がん患者の母が求めた医療と介護・介助

がんの症状、そして何より患者本人がどんな生活を望むかで、医療も介護や介助も方法や形がひとつではないと思いますから、簡単に言えることではないでしょう。

そしてそのこと自体が、インフォームド コンセントの押さえどころだとも感じます。

つまり、家族であるがゆえに、家族の側が自分たちの価値観を押しつけることになりかねない… そんな反省もあるのです。

受診、介護・介助を受けるための “足” が必要

母は甲状腺、大腸、腎臓それぞれのがんを同時に宣告されていました。そして手術後だけを考えても、月に平均4回、診察や検査、食事の指導などを受けるため、主治医のいる大学病院に通いました。自家用車で30分弱の道のりです。

月に平均4回ということは、ほぼ毎週1回ですが、ここに問題がありました。

  • ひとり住まいの状態で、受診のために病院に通い続けることが可能だったか?
  • 通院の回数負担を減らすため、母に日にちや時間の調整・交渉ができたか?

の2つです。

もともと、自家用車がなければ生活ができないと言って差し支えのない土地でしたから、母は免許もクルマも持っていました。
それでも、抗がん剤の副作用を抱えた状態での運転は、本人がしたがらない状態でした。

一方、母が住んでいた場所(私の実家があった場所)には、高齢者のために安価な料金でタクシーを使わせてくれる町役場が運営する仕組みがありました。これは、上にあげた公的な支援に入るものだろうと思います。

それでも、

  • 免許がありクルマもあるのにお金を払ってタクシーを呼んで乗る⁇ という抵抗感、そして
  • 必要ごとに電話して来てもらわなくてはならないという抵抗感、さらに、
  • 主治医・病院との話しに母ひとりで対応はできない

という3つがありましたから、少なくとも通院のためにタクシーを利用することはありませんでした。

私たち家族が万が一にもいなかったとしたら… そして母本人が通院しよう、治療を受けようという意思や気力を持てたとすれば、それなりの方法を考えたのかも知れません。

それが母の(との)経験から学んだことをどう活かせるかということにつながるのだと思いますが、それにしても、次にあげるように、必要な・有用な情報が実際の治療や生活から切り離されたところにあったということは覚えておかなくてはいけない事だろうと感じます。

支援を受けるには利用する側のアクションが必要?

ここに覚えておきたいヒントがあります:

病院には、がん患者を支援するソーシャルワーカーと呼ばれる部署があり、担当者がいました。
しかし、どうすれば通院し続けられるかというお金・時間・方法のようなアドバイスを受けることはできませんでした。

その時点で病院のソーシャルワーカーに相談できるのは、

  • 病状にどう対応すればいいか。そのアドバイスは誰からもらえるかといった本人の病状、検査や入院、手術、その手続きに関する疑問の解消
  • 介護施設やホスピスの紹介

など、がんという病気に直結する、言ってみれば今日・今の疑問・問題へのアドバイスでした。

町役場と病院はクルマで10分ほどの距離でしたが、タクシーが安価に利用できるというような情報は、たまたま聞き及んだとか、本人の側から町役場に相談にでも行かなければ、分からないままだったのです。

役場や病院などへは、利用する側から働きかけないといけないというのが私が、学んだこと。そしてわが家の場合、それは母本人にはできなかったということです。

母にタクシーの情報をもたらしてくれたのは隣に住む民生員をやっている家の奥さんでした。
役場や病院が相談相手にするには敷居が高いとすれば、ご近所さんとのつながりが助けになることもあるということだろうと思います。

公的な支援 - ケアマネジャーの支援は得られなかったのか

病院、町役場、でなければ民生員の支援… それが母や私たち家族にとっての支援や関連する情報がある場所だったのですが、支援と支援、情報と情報を利用者がつながなくては利用できない?! というのは、何とかうまくいかないものかと、ヒントやアドバイスがほしくなる話しのように思います。

ただもう少し事態が進むと、その支援をつないでくれるのがケアマネジャーだということが分かってきます。

ただ「事態が進めば」です。つまり、介護認定を受ければということ。
つまり、健康状態はレベルが一段、二段と下がり、自分でできていたことがしにくくなったりすれば… ということです。

今思えば、どんな介護や支援が得られるかを相談してみるという発想が一番大事なのかも知れないのです。どこに聞けばいいか分からない! と思えば、役場に行き、どこに聞けばいいですか? と尋ねる - それが支援を求める最初の一歩、一手だろうと思うのです。

母のがん闘病に先立つ1年2年前に、父の介護認定を受けていたのです。介護保険を利用して、実家には考えつく限りの介護・介助の施工をしてもらっていたのですから。

がん患者だというだけで介護認定を得られないだろうと、母本人が考えたのも、そうした経験があったからですが、なぜ手術を終えた時点で相談してみなかったのか… 私自身も理由がよく分かりません。

公的な支援 - 終末医療と介護認定、介護サービス

母が介護認定を受けたのは、これ以上は手の施しようがないということになり、がんセンターの大学病院から転院した終末医療を施してくれる施設でのことでした。

  • 介護ベッドの利用
  • 介護サービスとしての食事の調理や食卓の準備・片づけ
  • 入浴の介護

などを基本的に必要な介護サービスとして利用できるよう、介護認定の申請を施設専任のケアマネージャーが取ってくれたのです。

さらにその後、病状が進んで自分の足で歩くことがむずかしくなると、さらに介護レベルを上げる(利用できるサービスの金額を上げる)ための申請をしてくれ、利用するサービスの範囲はさらに

  • 排泄の介護(紙おむつや防水シートの購入などを含む)
  • 散髪
  • 歯科の検診

などへと広がっていきました。

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何より忘れてならないのは、母が必要としていたのは、そうした介護と輸血のような医療行為のセットだったということでした。

その終末医療の施設に転院する当日は実は、がんセンターから自宅に帰ることができれば、介護サービスの支援を受け、在宅で通院しながら過ごそうと考えていた、そのサービスが始まる日でした。その介護サービスも医療 - つまり、医師・看護師の資格を持った人たちによる医療と、一般的な介護の両方を支援してくれる施設と契約をしていたのです。

to be continued …

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