『自分を休ませる練習』- まず心の枷をはずさなくては

頑張る人に必要なナビゲートシステム?

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私にとって目下の課題は、(「今もまだ」というべきでしょうね)仕事と自分をどうつなぐか… みたいなところにあるのですが、矢作さんの言葉をたどりながら、自分では自分のことが見えないなぁと感じています。

今自分は何のために、何を頑張っているのか - それを自分で分かっておきたいというような欲求があるのですが、文字通り客観的に、かたよりなく、自分を評価することって、かなりむずかしい… だから、自分以外の目に助けてもらわないとだめだなと感じているのです。

たとえば… これまで何度か角度を変えて書いてきたのですが、産業翻訳という仕事に長く関わってきて、仕事の押さえどころとか工夫の仕方、クライアントの要望をどんなふうに翻訳に反映するかといったような視点で若い仲間と向き合ったとき、「ベテラン社員からのアドバイス」? と一言で済ませてしまえばいいものをちょっと違ったことを考えているのです。

私のノウハウは10年20年という昔の環境のなかで培ったもの。
そういう古いものを伝えることに意味があるのだろうかと感じたりします。

しかも、私たちが、ある意味押しつけがましく教わり聞かされてきた、仕事はこういうふうにやるもの!? とか、会社の目標と自分の仕事のベクトルを合わせることが大切?! とかいう仕事観につながる感覚 - これは信条とか呼ぶのでしょうか - は、今は教わるものではないだろうと感じたりするものですから、若い仲間たちとの人間関係を含んだ仕事の中で、自分の立ち位置をどこにとればいいか? と考えたりするわけです。

自分のいる場所を確認して、やっていることを知る

矢作さんの著書の中でこんな一節にであいました。

職場でも家庭でも、頑張る人は尊敬され 、重宝されます。何かに取り組んでいる姿は、私たちの大半が「いいな」と感じるものであり 、自分も夢中になれるものをと願い、探します。でも、頑張る人って結構な割合で 「頑張りすぎる人」化してしまう。これもまた事実です。たぶん、良い意味での「いいかげんさ」が不足しているのでしょう。もっとやわらかい考え、やわらかい態度でいられれば、「こうすべき」とか 「こうしなくちゃいけない」という頑なな態度にはなりません。

出典:矢作 直樹 氏著・「自分を休ませる練習 しなやかに生きるためのマインドフルネス

頑張ることがあたりまえだし、頑張らないのは悪!? というような感覚、あるいは
まわりと同じことを同じようにできるのがあたりまえ!? という感覚が私たちの中にあるような気がしているのですが、この一節を読んでいて、そんな自分は常識だと思ってきたことの中に、私たちの感覚を縛っているものがあるような気がしてきたのです。

そしてもうひとつ。

何かを決めなくちゃとか、その何かを探そう、あるいは何かをやろうとしているときは、矢作さんのいう[良い意味での「いいかげんさ」]がどこかへ行ってしまうように思うのです。

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何かに頑張っているときの感覚は、自動車を運転して、高速走行しているときのようなもの。頑張る度合いが高まるほど、アクセルを踏み込み速度を上げているのと同じで、自分の視野が狭まっている。前方に集中しているから当然でしょう。「視野が狭まっているよ」というアドバイスは意味をなさなくなります。

仕事の現場で、効率化をどう進めればいいかということを考えているケースで、この「良い意味でのいいかげんさ」の必要さを強く感じています。効率化を効率的に、有効に進めるにはどうすればいいか - なぜかこの話題は、アクセルを強く踏み込むことを求めるような気がするのです。

力の抜き方、とでも言えばいいでしょうか。
真剣に考えようとするほど肩に力が入って、視野が狭まっている… そのことをきっちり指摘できる(あるいは指摘してくれる)自分以外の視点がほしいのです。

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