食べるということは、そのまま生きるということなんだ
病の中にあっても、朝になれば床を離れ、朝食をとり、一日を始める… そんな型通りの生活を守り続けることが絶対に必要なことだと言っていた明治生まれの祖父母、あるいはその祖父母に育てられた私の父母の世代の人たち。
なぜそんなふうに習慣を守ることが大切なんだろうか?! なんて疑問を向けた記憶もあるのですが、食べられることを感謝するんだ! と言っていた言葉が思い出されます。
食べたくても食べられない… そんな経験をしないと分からないなんて、自分でも残念なことだと感じます。
自分で食べつづけた母のがん闘病
がんの闘病の中で、母はそんなことを意識することがあったのだろうか? -
思い出せばそう考えてしまうほど、手術につぐ手術を繰り返しても、母は、自分の力で口から食べるということをあきらめようとはしませんでした。
いえ、食べられなくなるかも知れないとか、食べなくてはいけないとかいう言葉も雰囲気もありませんでした。もしかすると母本人の胸の中には、そんな恐怖心のようなものがあったかも知れません。しかし、私たち子どもは主治医の言葉をどう受け止めればいいか、自分(母)はどうすればいいかをいっしょに考えていただけです。
- 取り除いてもらった腎臓がん。その後の経緯は良好だった。
- けれど、甲状腺がんの手術をしてもらった後、貧血状態が改善せず、3か月たっても体力が戻って来た! という実感をなかなかもてなかった。
- 造血剤の投与を進めてくれていた町医者先生に勧められてがんセンターをもう一度訪ねた。
- 腹膜への播種はあるものの、腹水もないかわりに、胆臓か膵臓かと疑われる場所にがん組織があるらしいということが分かった。
ただ、このころ、自分の体に何が起こっているのか理解したいと願っていた母も、そうした病気の経緯は分からなくなっていただろうと思います。
- 精密に検査をしてみて分かったのは、胆臓か膵臓かと疑われた場所のがんは、十二指腸とその後ろ(背中側)にあるリンパ線、血管を巻き込んでいるらしいということ。
- 十二指腸の内壁がもろいかさぶたのような状態になって、にじむように出血が止まらなくなっているということ。
- その出血を止めるための十二指腸の切除は、その後ろの組織を大きく傷つけることになるためにできないということ。
- 食べた物が十二指腸を通るとき、十二指腸の内壁にすれて出血している。
- 十二指腸を治療してやることはできないが、
食べた物が十二指腸へ行かないように胃と象徴をつなぐ手術をすることはできる。
十二指腸を助けられない… だから、十二指腸が完全に壊れてしまうまでの命しか望めない - そういう直接的でネガティブな話しはしませんでした。
がんがどうなるか… ということよりも、「食べた物が十二指腸へ行かないように胃と象徴をつなぐ手術」を受ければ、また自分で食べられるようになる - 食べられるようになる望みがある… その望みに賭けたいと、先に、母本人が望んでいたからです。
食べることが Quality Of Life を決める
「母が向き合おうとした余命宣告というものが意味するもの」の中でたどったように、母が生前、最後に受けた手術がこの食べられるようになるための手術でした。
がんを直接治療するための出術でないことは、私たち子どもはみんな承知していました。捉えようによっては、最初の手術を受ける以前、母が一番嫌がっていた延命のための手術ということになるんだなと思いながら、私は保証人として同意書に署名をしたのです。
本当の意味で母の命をつないでくれていたのは、輸血でした。
母は見事に手術を乗り切って、自分の口から自分の力で食べることができるようになっていました。ここでも、懸命に食べようとしていたわけではありません。食べられないと感じながら頑張って食べていたのではありません。
ごく自然に、食べたいと思うものを食べたいだけ、食べられるだけ口にしていただけです。十二指腸からの出血(下血)がなければ、母の顔から血色が失われることはなく、母が自ら食べていたものも母の命をつないでくれていたのだろうかと思えるほどでした。
けれど、みんなでテーブルを囲む食堂で箸をもって口に運べる食事でも、トレーに乗せてもらった食事をベッドへ運んでもらっていたとしても、スプーンで口もとへ運んでもらう食事だとしても、自分の口で食べる食事は文字通り、Quality Of Life を決めるものだと思います。
意識していたかいなかったかはともかくとしても、食事ができた、自分で食べようとし続けてくれた母には、子どもたちの誰もが感謝すべきだったなと思うのです。