母が向き合おうとした余命宣告というものが意味するもの

がんは告知ありき?

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がんセンターを頼っていたせいなのか、母のがん闘病は、診察もその後の治療も何のためらいもない告知ありき、手術ありきではじまったという感じが強いものでした。

最初の告知を受けてからほぼまる2年後、母には、自分の病気がどれくらい重いものなのか、治療に望む意味がどれほどあるのかを理解したいという思いがありました。その思いで、「余命がどれくらい残っているものなのだろうか」と患者である母と家族である私たちの方から、主治医に訪ねたのでした。

そのときには、しばらくのためらいがあり、さらに「ご本人がいるところで本当に話してよいのか」と確認があってようやく、自分の所見では・・・という余命の説明があったのです。

「これ以上ないほど重度のステージでがんに罹っているね」という検査のあとの告知があまりにストレートで、軽々と行われたのと比べると、どうしてこれほど重い雰囲気になるのだろうと感じたほどでした。

大腸がんも、腎臓がんも、医師たちにとってはガイドラインにも切除手術が挙げられているステージまで進行したものだったから、まず「告知ありき」だったのでしょうか?

転移がんの進行が下血を引き起こし、なおかつその患部は手の施しようがなく、余命いくばくもないと分かれば、患者は最期に残った投薬による延命のチャンスを忌避してしまうかも知れないという恐れがあってのことだったのでしょうか?

what's the length of remaining life
(c) Can Stock Photo

自分の余命を確認しようと考えた母の思い

主治医への問いを口にしたのは実際には私でしたが、母は、そして私たち家族はなぜ、わざわざ余命の話しを持ち出したのか - それは、それまでに聞いた主治医の説明とそれまでに受けてきた手術が、回復とはいかないまでも症状の安定につながってくれないという思いがあってのことで した。

主治医が提案してくれる治療はいずれも、そのとき必要でそのときにできることのベストだったはずです。そのことを疑うことはなく - 同意して自ら選んできたという思いがあるからこそそう受け止めたかったのかも知れませんが - 対処に効果が得られないというよりは、手術で症状にブレーキさえかけることができないのだとすれば、覚悟を決めるときが来たのだという感覚が母にも、私に もあったからでした。

    • 2012/5 大腸がん、腎臓がんを同時に切除する手術を受ける
    • 2012/9 甲状腺の切除手術を受ける
    • 2013/12 甲状腺切除後の回復手術を受ける
    • 2014/7 街のかかりつけ医で造血剤の処方を受け始める
    • 2014/9 造血剤の効果が十分に得られないまま、かかりつけ医で受けた定期検査での血液検査の結果として、がんセンターでの精密検査を勧められる
    • 2014/10 がんセンターでの精密検査の結果を待つ間、家族として強い危機感を感じるほどに体力が低下
        • 極度の貧血を起こしており、原因は腎臓がんの転移であることが判明
        • 十二指腸から出血、十二指腸とその後ろ(膵臓、肝臓に挟まれる位置)が一塊化するようにがん化
      • 十二指腸を通る食物が十二指腸の患部にふれることで出血があるが、この患部を切除したり縫合することは不可能
  • 2014/11 胃から小腸へのバイパス手術で十二指腸を通る食物の量を抑え、出血を避けるという目的の手術を受ける
      • 貧血は精神的な障害が出ないようにと輸血を勧められるほど悪化
      • 貧血の症状がある程度以上に改善するようにと、絶食状態で輸血と点滴による治療が進められる
    • そうした症状の中でも母本人は、ちゃんと食べたいという意欲を失わなかった

この2014年11月のバイパス手術のあとの説明を受けるときに、母の意思で余命についての質問をしたのです。

手術が成功すれば、転移の腎臓がんに効果が期待できる薬による治療も提案したい - そう言っていた主治医の話しに対して、母は「治療の見込みがない延命のための抗がん剤は嫌だ」と思っていたからです。

病気の進行に思いをさえぎられるとしても

母本人は、2014年7月の少し前あたりから、自分の体が自分の思うようにならないとか、自分の体に何が起こっているのかちゃんと分かりたいという言葉を繰り返すようになっていました。

しかし、11月のバイパス手術を受ける直前の状態でも、
「輸血によって血圧が上がれば、大出血の引き金にならないとも限らないが、バイパス手術を受けるには輸血によるバイタルの改善が不可欠だ」という主治医の説明が十分に理解できてはいなかったのかも知れません。患者本人が参加したインフォームド・コンセントはここが限界なのだろうかということを感じたのもこの時期でした。

自分の体のことをちゃんと分かりたいと言いながら、貧血も手伝ってか、主治医の説明をそのままには理解できていなかったかも知れないというのは切ないことです。ただそれでも母は、「ちゃんと自分で食事を食べられるようになりたい、手術でそれが可能になるのならば、受けたい」と言って手術を受けたのです。
ですから、このバイパス手術のあと、期待以上に顔色も良く、話しの受け答えもしっかりしていた母にとって、自分で自分の体のことを分かる最後のチャンスが、このバイパス手術の直後でした。

「今でも体のことをちゃんと分かりたいと思うか?」 「先生が勧めたいと言ってくれる薬は、やっぱり断ろうと思うか?」 - 主治医との話し合いを翌日に控え、前日の夜、母の思いを確かめてやるべきだと感じた私はそう問いかけたのです。

「これから先のことはすべてお前(私)に任せるから、主治医との話しは自分は効かなくていい」という選択肢もあるだろうし、「ここまででもう十分。もう終わりにしよう」という選択肢もあるだろう - 言葉にはせず、胸の中で思いながら問いかけたのです。

そうした時間を経て、母は私の口を使って、自分の余命を確かめたのでした。「ここから先、何もせずにいれば3ヶ月」という主治医の診断を聞いて、その先の分子標的薬の投与を受けることを選んだのでした。

貧血が改善し、精神状態が安定していさえいれば、私たちが期待していたような明快さで、結果的に私たち兄妹をも含めた家族みんなのQuality of Lifeを自分なりに守る選択をしたのです。

余命宣告 と 自分で選んだという誇り

2014年10月当時、私には覚悟に似た予感のようなものがあったと思っています。しかしそれでも、夜、睡眠を突然断ち切られるようなショックを感じて目が覚めるというようなことを何度か経験するようになっていました。

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一方の母は、2013年の夏、まだ手術がすべては終わっていないという頃に父の遺品を整理したりしていたのですが、近隣の友人を相手にして病状の苦しさやその後の自分の体に対する不安で涙を流していたといいます。

余命宣告が母のためになったかどうか、今となっては知ることはできません。
ただ、その説明を受ける前には不安や恐怖感がどうしようもなく強く、母は母で、私は私で、自分の胸の思いとそれぞれに向き合うしかなかったように感じます。そんなそれぞれの思いに余命宣告が踏ん切りをつけてくれたという面があったようにも思うのです。

だから、余命宣告はあるべきなどとは到底言えるものではありません。
やはりそれは、患者本人が決め、家族が支えるべきものでなくてはいけないと思うのです。

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