便利さといっしょに成長している?
「つながる」という便利さ
「世の中は変わったんだなぁ」と言うと自分がやたらと年を取ったような気になってしまうのですが、振り返ってみると、オリジナルのApple iPhoneが発売されたのが2007年1月ですからもう15年もたっているんですね。
iPhoneやスマートフォンを持つことで、時間や場所の使い方、人間関係など私たちのあらゆるものが変わってきましたね。
仕事の面でも私は、PCなしは考えられないという環境にいます。いながらにしてヨーロッパの担当と1つファイルを共有しながら作業するという日常を過ごしています。iPhone/スマートフォンにしてもPCにしても、今の私たちの合言葉は「つながる」、あるいは「つながっている」。そのつながりを頼りに暮らしているということをはっきりと感じています。
アメリカやヨーロッパを相手にFAX 1枚を送ろうとすると何分、何十分という時間をかけていた時代があったなんて信じられません。今は30秒もかからずにメッセージをやり取りできるのですから、時間や距離の感覚が短くなっても当然です。
この速く短くのおかげで仕事を速く進めることができるようになり、私たちはこの速く短くを便利さだと思っています。仕事を速く進められるということは仕事が楽になったということでしょうか?
どうもそうではないような気がするのですが^^;
便利さの裏と表
1つの仕事を便利な機能を駆使して素早くこなせるようになれば時間が余る、時間が余れば仕事を離れ、余暇として自分のために使える時間が増える・・・そんなふうにプラスの流れが連鎖してくれれば申し分ありませんね。
ところが実際のところは、1つの仕事を素早くこなして時間があるのならば2つ目、3つ目の仕事をこなしてくれないか、という流れになっている。今流行りの “コスパ” (コストパフォーマンス)を高めようというわけです。会社の目線に立って1社員当たりの費用対効果を高めなくては - それは至極当然の発想のように思いますが、そんな単純計算でいいのでしょうか?
費用対効果の意味がかなりずれているように思うのですが、速く短くの感覚があるために、そのずれに気がつくことができなくなっている。より速く短時間で仕事をこなす - その回転数が上がるばかりでどうも置き忘れていることばかりが増えているような気がしてなりません。
ただ、もしそうならば、自分のペースで回転数を変えることができる自由さ - 今の便利さに囚われてしまわない柔らかい感性を持たなくてはいけません。
要するに、携帯電話やその便利さに使われるのではなく、使う側になっていないと。
四十年前の出来事といえば、前後の経緯はまったく欠落している。正しくは、デートであったのかほかの用事で待ち合わせをしていたのかも定かではない。ただはっきりしているのは、たぶん新宿の、今はありもせぬ喫茶店で、二人がともに待ち人来らずという屈辱を体験した、ということだけであった。
今の若者たちからすれば、ちょっとしたミステリーであろう。しかしふしぎは何もない。あのころの私たちは、携帯電話を持っていなかったのである。
待ち合わせの日時をまちがえるか、場所を取り違えるか、ともかく昔の恋人たちはほんのわずかの誤解によって逢瀬がかなわず、へたをするとそれが永訣にもなりかねなかった。さて、そうこう考えれば、私たちは携帯電話を所有して以来、「待ち合わせ」というロマンチックな儀式を失ってしまったように思える。むろん死語になったわけではないが、デートの一日の開幕、もしくは恋愛の端緒としての「待ち合わせ」は、その本質を失ってしまった。
少なくとも、渋谷ハチ公前で何月何日何時何分に、きっとね、などという待ち合わせの様式はなくなった。おおよその時間と場所を定めておいて、あとは「いま、どこ?」ということになる。美しき誤解などはありえず、もし二人が会えぬとしたら、恣意的な拒否にちがいない。
出典:浅田次郎氏著・「アイム・ファイン! 浅田次郎エッセイ集 (小学館文庫)」
何のために便利さを求めるんだっけ?
つい先だって私の妻にも、とある葬儀に出かける義母を迎えに行きながら、雑踏に阻まれて葬儀会場の入り口の右と左にいながらお互い会うことができず、迎えに行った目的を果たせなかったということがありました。妻と義母が携帯電話でつながっていれば起こらなかったことでしょうが、だからと言ってそれ以上でもそれ以下でもありませんでした。
その昔、電話はあってもそれは家の中にいる間だけ。一度家を出ればその約束の場所と時間だけを頼りにしていたのですよね。交通機関の事故などがあっても分かるわけもなく、互いの体内時計と忍耐力・判断力を頼りに「待ち合わせ」を実現してきたのです。
当然のことながら、すれ違いや誤解も互いの寛容、思いやりでつなぎ直したり、埋めたりしていた。
私たちの多くはそういうものだと思って暮らしていたのですが、こんな時連絡をつける方法があればいいのにと思うことは誰にもあったことだったでしょう。だからこそ、携帯電話がこんなにも普及したのです。以前、アタッシュケースサイズの機械にストラップをつけ、肩からぶら下げて使っていた携帯電話がなんだか懐かしいです。
ゴルフ場でコース管理の仕事 - 造園とか土木の仕事 - をやっていた頃、私が感じていたのは、パワーショベルやブルドーザー、チェーンソーや芝刈り機がどれも「文明の利器」と言える、人のための道具なのだということでした。
鋤(すき)や鍬(くわ)、鎌(かま)や鋸(のこぎり)、鉈(なた)や鉞(まさかり)や斧(おの)- そうした道具を使って自然に立ち向かっても、一人の人間にできることは本当に微々たるものです。
ダンプカー1台の荷台1杯の砂利や土をスコップ1本でおろしてみろと言われても、1日にはたして何台分おろせるでしょう。積んでみろと言われればその量はさらに減ってしまうでしょう。それをブルドーザーは数分でこなします。バケットを動かすための部品にグリスをさしたり、燃料を補給してやれば、1日でもその作業を続けることができるのです。
チェーンソーも同じです。
刃の手入れや交換、燃料を補給したり、切りくずの掃除など、必要な時間をかけてやれば1日でも木を切り倒すことができます。斧1本であれば樹齢数十年の木を倒すのに数十分、1時間とかかります。その作業を10分もあればこなしてしまうのです。
けれど、燃料を使って動くそうしたパワーツールも、パワーツールのペースで使ってしまえばただいたずらに自然を破壊するだけなのだな - そんなことを学んだのです。
自分らしさを忘れないためにも柔らかな発想で
携帯電話が今の私たちの便利を支えてくれる文明の利器だとしたら、浅田氏が語るこの言葉を思い出したいと思うのです。
そうこう考えれば、私たちは携帯電話を所有して以来、「待ち合わせ」というロマンチックな儀式を失ってしまったように思える。むろん死語になったわけではないが、デートの一日の開幕、もしくは恋愛の端緒としての「待ち合わせ」は、その本質を失ってしまった。
決して深刻にではなくて、余裕を忘れずに。
そうでなけば、便利さを使いこなしながら、便利さにわれを忘れてしまわず、一番自分たちらしい暮らしを実現することはできそうにないと感じますから。