「確認しておく」ということと 「そのとき決断する」ということの違い
父は、命に関わるような、深刻で、気分が重くなるとも限らないような話題を避けようとする人でした。自分が判断を求められる立場になるなどということは想像もしなかっただろうし、想定する気もなかったような気がします。
私の記憶にあるのは、たった一度、母といっしょにした話しの中で、どんふうに送って欲しいか… つまり、葬儀をどうするか… ということを母が私に向かって自分の意見を言ったときに、自分も同じ考えだという意味合いのことを言ったことだけでした。
それに対して母の場合はどうだったか。
後から聞かされた話しを思い出してみると、身に覚えのある異常を - あるいは、異常ではないかという怖れを - 母は感じていたのかも知れません。父とは対照的に、「手の施しようがない状態になったとしたら、そこから先の延命は望まない」ということを言った人でした。
私にとっては、その一言が確認できていたから、あの時、その先の判断をすることができた。
そう感じる反面、その一言があってもその先で求められる判断がとても多くて、簡単なものではなかったなとも思います。
その感覚の一番の理由は、覚悟と現実の間にあったギャップです。
ずいぶん真剣に、考えられる限りの神経を集中して話し合っていたことは確かです。そのことに誇張も嘘もありません。けれど、その判断・決断を求められる実際の場面まで想定するような感覚で話しはしていないのです。「今がその時だ」というタイミングや判断に継ぐ判断のペースに神経が完全にはついていけなくなっている - そんな状況に陥っていたのです。
当然と言えば当然だろうと思います。そうした精神状態になったのは患者本人の母が一番最初だったように思います。ただそれは、あとになって考えてみると、母にとっては良いことだったようにも感じます。

そういう母を見ていたからなのか、必要になる判断・決断は自分の役割りだという感覚が私にはありました。
私の役割 - それは正確に言えば、母が自分で判断できないときには、母に代わって私が果たさなくてはならない役割という意味。
母が自分で判断できるかどうかを見極めて、母が自分で判断しようとするのであれば、自分の思いを二の次にしてもその判断を助けなくてはということも含まれていました。
そもそも、がんの告知を受けるより5年も前に、母は病院へ行くことも医師の診断を受けることも拒んでいたのです。その頃からあった私の悩みは、
- 受診させることが正しいのか、受診させないことが正しいのか、という母のための判断と
- 病院に行かせなくて後悔することはないのか、という自分のための判断
という、母に対するインフォームドコンセントと言ってよいものでした。すべての決断を同じ意識で共有しなければと思っていたのです。
ただ2度だけ、母本人の思いは何度確認してもくどいということはないだろう、本人の思いを母の口から聞くことができたなら、ずいぶん楽だろうと思ったことがありました。
ひとつは、がんセンターから緩和ケア施設(ホスピス)に母を転院させたとき、そしてもうひとつが、母への輸血をやめるかどうかの決断です。
決断 - 緩和ケア施設(ホスピス)への転院
別れが近づくのを感じながら、何をなすべきかを考えた時間
がんセンターからホスピスに転院するということは、これ以上積極的な治療はできないという医師の診断を受け入れるということを意味していました。
余命3か月という診断は母自ら主治医に尋ねたことでしたが、その説明を聞きながら、
- 自分には無駄と思える延命は望まないと言う思いのすぐ隣に
- このまま死んではいけないという思いがあったように思います。
私たち子どもは分子標的薬の投薬に一縷の望みを託していたのですが、転院=その投薬をやめるということを意味していました。
そして、その投薬をやめるということが何を意味するのかは、言葉にしなくても分かることでした。ましてや、主治医のいる病院を離れて痛みを和らげてくれるところへ行こうというのですから。
ただ、兄妹やその家族、私の家族も母本人も、その悲壮な部分の話しを口にすることがありませんでした。
唯一、母の意思はぶれませんでした。自分の体がどうなっているのか分かっておきたいと言いながら、私に説明を求めたのです。
それは、余命3か月をどう生きるべきだろうと考え、分子標的薬の投薬を選んだときと同じでした。
私は、医師の説明をできる限り忠実に話して聞かせました。
- 自宅に帰るメリットとデメリットこと
- 緩和ケア施設に移るメリットとデメリット
- そして何より、どれくらい残りの時間があるのかが分からないというのだということ
を話したのです。
“にじむような出血をしていた十二指腸の内壁は施術できる状態ではなく、止血を施すこともできない。大きな出血がいつ起こってもおかしくないし、その出血が起こってしまえば命が危険になるだろう。悪ければ診察が間に合わないということもあり得る。
それでも、治療のための計画にそって治療をするためにあるがんセンターに入院し続けることはできない。在宅で暮らし、もしもの時には連絡をくれれば対応する。センターの救急とも連絡を取っておくことはできるから。”
このときまでに母は2度、大きな吐血を起こし、下血もじわりじわりと増え始めていました。
緩和ケア施設(ホスピス)という選択が意味したもの
転院の直前、がんセンターの主治医は母に起こり得る”怖れ”として、そのまま死につながってしまうかも知れない大きな出血が起こり得る、という話しを私にしてくれていました。そして私はと言えば、できることならその危険を母本人にも、妹たちや妻にも負わせたくないと感じていたのです。それまで2度の吐血を経験していただけなおさらでした。
その主治医のいるがんセンターを離れ、緩和ケア施設に移るということは、いつ終わりになっても不思議はない、戻れない転院をするのだという覚悟を持たなければいけいない - 私はそう感じていました。
けれど私は、自分が感じているその覚悟を母には話さず、
「今までのような吐血も輸血も、これから心配しなくてはならない痛みにも同じように対処してくれて、病院よりももっと自分の思うような時間をすごせる病院を頼んだからね」
「貧血と出血をうまく直して家に帰ろう、そのために安心できる病院だから」
と話していたのです。
緩和ケア施設を病院と呼んだ以外、私の言葉に嘘はありませんでした。施設の新しい主治医と話し、そこが最後の場所である必要はない、望むのならば家に連れて帰ろうと思っていたのですから。
けれど私は、自分の中にあった決定的な覚悟を母には話さなかったです。
私の胸にずっとあったのは、母が言っていた「手の施しようがない状態」という言葉だったのです。
to be continued …