クルマを語り、伝えるための言葉をさがして 東京モーターショウ 2015
出展しているメーカーはどこもジェントルな雰囲気で、ややもすると元気さが足りないような印象を持ちながら歩いた東京モーターショー2015の会場。それでもあふれるほどに集まった来場者はみな、並んだクルマに熱い視線を送っていました。
実際に触れてみると、クルマはやはり走るために生まれてきたもの - あらためてそんなことを感じながら、会場を歩き、出展されているクルマやモーターサイクル、クルマを走らせている部品や制御システムに触れてきました。
走るために生まれてきたもの - もちろんそれは私の感覚で、クルマに対して、解放感とか躍動感、どこかわくわくするような高揚感を与えてくれるものであってほしいと思っているということなのだろうと思います。
考えてみると、自動車という製品は、日常と非日常を併せ持ったものなのかも知れません。
iPhone、スマートフォンは、通話+接続のツールになってきたと感じているのですが、そうした携帯電話でできることは自動車ででもできるようになっていますね。運転席に座り、クルマのコントロールパネルからスマートフォンとのペアリングを介してネットワークにつないだり、ツイートしたり、電話をかけたり。その意味では、自動車はますます日常的で、身近なものになっていると感じます。
接続が今は、日常的な - あってあたり前というような機能なのだとしたら、その接続機能を持つ前の自動車の日常性はきっと
- 目的の場所に向かって移動するという機能 と
- 目的の場所に向かって運ぶという機能
ではなかったかと思います。
けれど、モーターショウの会場に並んだクルマを私は、走るために生まれてきたものという感覚を持って見てきました。私が自動車に感じているのはわくわく感とでも言えばいいのでしょうか。それは - 移動する、運ぶという - 日常的な目的と言えるようなものを切り離して、純粋に走るためだけにも存在できる、そんな走りに対する憧れのような感覚なのかも知れません。
クルマの持つ、走るという性能は、私たちの中にある日常と非日常の、必要性や夢を満たしてくれる性能 - そんなふうに言うことができるように思います。
私は自動車のジャーナリストではありません。翻訳という仕事は原文があってはじまるものです。オリジネーターが何を伝えようとしてその原文を書いたか、それが理解できて、感じることができてはじめてはじめられる仕事です。
クルマを語る文章を翻訳する時のために、日常と非日常を感じることでその言葉探しをしてきたと言えば良いでしょうか。
走る進化の中にある自動車が”つながる”ということは
たとえばもう一度携帯電話に戻ってみると、そこにも日常と非日常があるように思います。
- 通話 あるいは
- メール
という、意思を伝え合う性能が携帯電話の日常的な性能ならば、ショートメッセージやLINEのような日常性のすぐ隣に、とても大きな非日常もつながっていて、世界のあらゆる国や人々とつながっているという実感を感じさせてくれます。
たとえば、iPhoneには、世界各地の天気を確認することができるアプリが標準で用意されています。ミュンヘンは今何時で雨が降っているらしいとか、パリも同じ時間、流れ星が見えるほど快晴の夜空らしいとが分かります。
この機能は、誰でも持てる携帯電話の機能にしては、必要な人には便利、不要な人も多いという類の、半分は非日常にあるもののように思います。
本来の通話の機能に接続の機能をあわせ持つ携帯電話ですが、走るという性能を進化させてきている自動車が、そうした接続の機能を併せ持つ。それはたとえば
- GPS機能で自分の位置を確認することができる機能 と
- 衝突のときに乗員を守ってくれるエアバッグシステム、その衝突を検知するセンサーが連動すれば
万一の事故のときに自動車が自ら所定の回線を使ってSOSを発信するという機能になる。
そんな、すでに実装されている機能さえ、私たちには日常的でより身近なものになってきているということの表れだろうと思うのです。
- 自動的に減速・停止するブレーキシステム
- 停車するとエンジンを止め、発進しようとすればエンジンを回転させる自動のSTART/STOP機能
- 高速走行に入ると自動で車高を下げ、サスペンションを硬めのモードに切り替え、トラクションと姿勢を制御する
- 駐車スペースを自ら探し、ドライバーの駐車OKの判断を待って自動車自ら駐車するパーキングアシスト機能
- 走行レーンを外れそうになるとステアリングをバイブレートして警告するシステム などなど
私たちが意識するしないに関わらず、自動車は数えきれないほどにの日常を備えています。もう未来形になっていると言っても良いと感じるほど、走る機能・性能は、守り、楽しませてくれる機能・性能と切り離せないところまで成長していますね。
環境問題を考えれば、自動車という存在はとても微妙なものだと思います。その意味で、二律背反の非日常性を持っているということは私たちは認識しておかなくてはいけないようにも思います。
私たち自身のためにも自動車はどんな未来に向かって走っていこうとするのか、見守っていかなくてはいけないように感じます。