何を求めてブログを書いているだろう - 自分らしさを求めて

書くことはそんなに怖くない?

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読んでもらえる面白いブログ記事を書きたいと思ったとしても、きれいな文章を書かなくちゃ・・・というようなこだわりを持たず、肩ひじを張らずに自分らしい言葉で楽しんで書いてほしい・・・そんな意味合いの話しをWebマーケターのかん吉さんの著書の中で読みました。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんきです。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と  さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる というけゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ? (出所不明)

良く見ると、文章がぐちゃぐちゃですよね。文章が多少おかしくても、人間は自分で修正して読めてしまうのです。

ネットでは、文章を最初から最後まで隅々まで読むというよりは、眺めるような感じでページを閲覧しています。

出典: 人気ブログの作り方
著者: わかったブログ管理人 Webマーケター かん吉

かん吉さんの”書くことの勧め”とも言えるこの一節は、もちろんより良く、より正しく、読んでもらえる記事を書きましょうと具体的な方法を伝授しようとしてくれていますから、その意味でもとても力になると思います。

自然と分かる完成形
(c) Can Stock Photo

 

書くこと & 読むこと - 2つで1つのちょっと不思議な関係

そしてこの一節は、私にとっては別の意味で、とても象徴的な話しです。

文字や言葉、文章は正しく書いてあたりまえ - という感覚がどこかにあるような気がしているからです。小学校の作文の授業で植えつけられたものか? 読書感想文という宿題の恐怖感? につながっているのか? なぜか、”正しく”なければいけないというその感覚をぬぐうことが簡単ではないように思うからです

どんな言葉、どんな文章が正しくて、良い言葉、良い文章なのか - それがしっかり分かっていただろうかと心配になるほど、”正しく”書かなければという思いが強いように感じているのです。

 

ところが、書くときにはそんな感覚でいるにも関わらず、読み手になると、かん吉さんが挙げてくれた例のように、読むのではなく、眺めることで意味はつかめてしまうのです。それは言葉の面白さのひとつだと私は思っているのですが、捉え方によっては、どこか少し切ない性質だとも思います。

 

日本語も、日本人の感覚も意外とすぐれもの?

「文章が多少おかしくても読めてしまう」ということは、日本語が表意文字だということと、とても良く似た話しのように思います。

つまり私たち日本人は、たとえば、「青」という文字の意味を自分の持つ青のイメージ - 青空の青とか、海の青さ - に重ねて捉えているというのです。「青」は「青空の青」「海の青」、「赤」は「夕陽の赤」「りんごの赤」というように。

文字の意味とイメージとがリンクしているのが日本人の言葉に対する感覚の一番の特徴だという人もいます。日本人の言葉の情感が細やかなのは、そのリンクがあるからこそだという訳です。

カメラで全体を写し取るようにして、書かれていることをイメージする、それが読み手の意味の捉え方ということになるのでしょうか。もともと持っている私たちの言葉感覚は、実は結構すごいのだと思っています。

 

言葉を選んだり、文章を練ったりと時間のかかる作業をしても、かけた時間ほど丁寧に読んでもらうことができないのだなと悲観することはありません

自分の目を信じてみよう
(c) Can Stock Photo

絵を描く技術で点描画というものをご存知でしょうか? 目に見えている物体や景色を無数の色の点に置き変えて描く技法です。物の色は、無数の光の周波数となって私たちの目に届いている。私たちの目はその無数の光の粒を網膜の上で合成してものを見ている - そうした現象をそのまま技法に取り入れているのです。

「文章が多少おかしくても読めてしまう」というときの文章1枚の絵、並んでいる文字を描いた色の点 - 光の粒 - に置き換えて、ひとつひとつの文字が正確でなければ伝えたい絵 - 文章 - にはならないと考えてみれば、言葉や文章に必要な”正しさ”の意味とか、大切さもなんとなく分かってくるように思います。

文章の全体を1枚の絵として眺めていても、どんな内容の文章かが理解できる。その反面、光の粒1粒 - 言葉 - に汚れや異常があればちゃんと違和感を感じる。それが読む人の目です。私も仕事を通して、そんな例をいくつも経験しています。

 

マイペースから始める継続の力

文字を書く - 言葉を文字にしたり、その文字になった言葉を読み、理解するという作業は、ブログやソーシャルネットワークに触れて過ごす時間が長くなるほどにスピードが上がっている。そんな気がします。

まばたきをする速さで情報を読み取り、識別する - 少し誇張しすぎだとは思いますが、そう言えそうなほど1日に触れる情報量が増えています。

どんなふうに文字情報と付き合っているか - 読むタイプか、眺めるタイプか - は、本や新聞記事を読むときと比べてみるとさらにはっきりするかも知れません。そしてきっとみなさん一人ひとりは、ご自身がどんなタイプの書き手で、読み手なのか十分に理解されているでしょう。

 

自分を見つめる時間が大切
(c) Can Stock Photo

私はプライベートでも仕事でも、大量・高速を感じるネットワークとの付き合いが深くなりつつある場所にいます。その反動なのか、自分は眺めるのではなくて読もうとする読み手だと思っています。ややもすると、ネットワークのスピードに戸惑いを感じるほど、書くのも読むのも今の速度についていけていないのかも知れません

 

日本語は丁寧語でできている - そんな言葉に出会ったこともあります。書いた文字にしても、話す言葉にしても言葉は意思を伝え合うものですが、私たち日本人の文化は、相手を尊重する文化だというのです。自分が伝えたいと思うこと、気持ちを伝えること自体、まずは相手を尊重する - たとえば、「お忙しいかと思いますが、お話しする時間を割いていただけないでしょうか」、そんなアプローチが本来は正しいのだという感覚が私たち日本人にあるというのです。今はあまり使わなくなっているように思いますが、礼儀作法という言葉があったくらいですから。

 

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もしその話しのとおりだとすると、挨拶の順序や使う言葉を意識する感覚が”正しく”書かなくてはいけないというプレッシャーになっているかも知れませんね

けれどだからこそ、情報量の多さに怖れることなく、相手を尊重する文化に育ったという自分の感性を信じて、何よりもまず、自分の言葉で書く自分のペースを見つけたいと思うのです。自分のブログの明日を見つけたいと思っているからこそ。

みなさんはどうでしょう?

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