取扱説明書がなくなっているのはiPhoneだけではない
iPhoneに取扱説明書がなく、使い方に疑問があれば、iPhone自体で調べなさいという構造になっているのは、私のような後発のユーザーにとってはちょっと厳しいように感じますが、印刷物としての取扱説明書がなくなるきっかけになっているのは、やはり説明書の使われ方。そして、説明書に求められるものでしょう。
情報を発信するからこそのスパイラル
必要なときに必要な情報を求めて開くのが取扱説明書。逆に言えば、それ以外、説明書は開かれることがありません。しかも、
- 製品を正しく使ってもらうための手順を説明する一方
- こんな疑問が出るだろうという想定のもとに手順説明としての情報にぬけているものがないことが望ましい
- それでももし、
- 疑問が解決できなければ、ユーザーが自分で解決するためのヒントとして “トラブルシューティング” や “よくある質問” や
- 相談窓口も用意しておかなくてはならない
情報である以上、間違いは許されません。間違いが防げない範囲も把握して、ユーザーを支援しなくてはなりません。説明書という情報を発信していることで、その正確性に対する責任のスパイラルが回転し続けているのです。製品はバージョンアップなどの改良を繰り返していくものですから、説明書の内容も変更点を追跡していかなくてはなりません。
対応し、カバーしなければならない項目と情報、工程の多さ - 取扱説明書作成にはとても悩ましい仕事が多いのです。
そうした努力を重ねても、それでも、説明書どおりに使ってくれないユーザーがいる。説明書にはそんなまったく別の問題さえついてまわっているとこも忘れることはできない項目でしょう。
製品の改良、発展が取扱説明書をなくすのか
少し極端な言い方ですが、説明書がなければ使えない=使いにくい製品だとするとメーカーも私たちも困ります。これを逆から言ってみると、説明書がなくても使える=(安心・安全・満足な?)使いやすい製品ということになるでしょうか?
プラグインという機能も、メンテナンスフリーという性能も、簡単•便利を求める私たち使う側の声に応えてきた結果生まれてきたものだろうと思います。
その意味で、自動車もとても象徴的な製品だろうと思うのです。かつては、始業前点検と称して、エンジンをかける前のチェックはやって当たり前でした。
ボンネットを開けて確認する項目はずいぶんたくさんありました。
- エンジンオイルのレベル
- ファンベルトの張りに極度の緩みや緊張がないか / 傷などがないか
- ブレーキやクラッチのオイルレベル
- バッテリー液のレベル
- タイヤの空気圧は正常か / 傷、噛み石はないか
- ウィンドウガラスに傷などがないか
- ワイパーブレードの状態に問題はないか
などなど
外からのチェックが終わると運転席に座って
- ミラーの位置
- シートの位置
- ハンドルの位置やあそびは適当か
と、点検は続きます。
自動車自体は安全•安心をアピールしたい製品ですが、その始業前点検はというと、
- 手が汚れる
- もし異常があっても、部品がすぐには調達できない
- ボンネットの開け閉めやバッテリー周りで怪我などの不都合が起こったりと
みんながあまりやりたがらなくなる要素が多かったのです。
それが今や、メンテナンスフリーがあたりまえ? 点検はプロに任せて、ユーザーは使うことだけ考えたいという雰囲気がありますね。電子調整し、電子制御で動くようになってきた分、素人は手を出せなくなっているという面もあるでしょう。
はたして私たちは、自動車の取扱説明書をどのくらい読んでいるでしょうか。読まなくてはならない情報に遭遇しているでしょうか。
取扱説明書には、製品の使い方 - How To - だけではなくて、メーカーとユーザーの間の約束ごとやユーザーに求められる社会的な責任に関することまで書かれていることがあります。
そうしたことを考えてみると、取扱説明書がなくても良いということは
- 製品自体の使い方は説明がいらなくなってきた
- 製品自体の信頼性が高くなってきた
- 作る側と買う側(使う側)の要望や責任の所在がはっきりしている
と、いうことになりそうですね。
さて、本当にそうでしょうか? ある意味、メーカーとユーザーの間は信頼でつながっていると言えるような気がするのですが、そのことを置いておいても、説明書の所在を確認しおかなくて大丈夫ですか?