安らぎを感じる場所、自分らしくいられる場所

心の居場所は、ひとりひとり違うことは分かっているけれど

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「魂・心・体を調和させて健やかに」と題された章。宗教や信仰がどいうものなのかをより客観的に考察する中で、魂や心の居場所を確認しようとしているのでしょうか。

その中で出会った言葉に、矢作さんが語る客観的な考察から少々それてしまっているだろうかと思いながら、私の近くにあった信仰のことを思い出しました。

さまざまな宗教が「神」と呼んでいる存在を、例えば富士山の頂上だとします。宗教というのはその頂上にたどり着くための「方便」です。つまり行く先は全部一緒なのです。

(中略)

向こう側が見えたら細かいことは気にせず、みんな仲良く「では上で会いましょう」でいいように思いますが、山の登り方がどうの、登る道の違いがどうのと、争っても仕方がないようなことで揉める、それが人間がつくった宗教の負の側面です。

信仰は人間が求めるものであるがゆえに、不完全で、負の側面を持たざるを得ないのでしょうか?
なぜ、何のための信仰なのだろうという思いを拭えないまま、信仰を持った両親 - 特に父親 - との関係にむずかしさを抱えていた私は、この矢作さんの言葉をとても切ない想いがしながら読みました。

私自身は信仰を持ってはいないし、持ったこともないのですが、なぜか、自分の信仰している教えが絶対であって、それ以外の価値観、あるいは(信仰に対して)迷うことはあってはならない忌むべきものだというように、頑なな接し方をされた時期があっただけに、矢作さんの言われる負の側面こそが宗教そのもの、信仰なのだと感じて過ごしたことがあったのです。

話す言葉にある訛りがいけない、それでは誰も聞く耳を持ってはくれないと言われ続けたような日々でした。ならばどんな発音、イントネーションならば受け入れてもらえるのか、私にとってはごく素朴なものでしたが、そうした疑問さえ受け付けてもらうことができなかったのです。

信仰や宗教を意識したことはなくても

私自身はどう思っていたかと言えば

初詣に神社に行ったならどのようにお参りするものなのか。お寺の住職に葬いのお経をあげてもらい、焼香するとしたら念を込める作法、込めない作法どちらが自分にとって自然なのかなど、宗教にまつわる行事やできごとに際して、自分なりの心の置きどころを大事にしようとする感覚が働くことも少なくありません。

あるいは、ナツアカネが飛び、アキアカネが飛ぶ季節の変わり目、彼岸花の色に強く季節を感じたり、最晩年、歩くこともおぼつかなくなった母を伴って眺めた彼岸花の花畑を思い出しては、その色に何か穏やかなものを感じたり - 風や空気のながれ、星や月の運行をいつでも感じていたいと思うような面もあります。

毎日を空の下で過ごしたゴルフ場勤務のころには、夏には夏、冬には冬と変わることなく感じる植物、動物の命と自分の存在を重ねてみようとしたり -
森羅万象という言葉の意味を確かめながら、自分の命は、自分の意識とは関わりのないところで息づいているということを思ったり -

その感覚はもっと若かったころに胸にあったもの - 自分はなぜここにいて、どこへ行こうとしているのか - そんな疑問に答えを求めようとしていた感覚に近いもののように思います。

朝と夕方の挨拶以外、一日中、植物を相手にして人と話すことなく、1ヶ月2ヶ月を過ごす中で、人と話す時間がないことの苦痛を感じたこともありました。
自分はどうして人を求めるのだろうと思ったものです。

理解しようとして 何かを切り捨てたりはしていないか

自然と自分の間で色々なことを考え、覚えたように思っているのですが、そうした時間は私にとって自分を分かるための時間だったように思います。
その感覚は少しずつ家族や兄妹、義兄弟、親族、仕事仲間や友人との関係 - つまり、人と自分の間で自分のいる場所を分かるための時間へと移り変わっていき、今につながっているように思っています。

そうやって自分なりに歩く - 生きていく - ということを私は、父がどこかで語っていた「信仰」というものに通じていると感じているのじゃないかなと感じていました。
信仰や宗教を標榜していたわけではないのですが、親子だけにどこか似たような感覚があるのだろうかと思ったこともあったのです。

ただついぞ、父とはその話しができないまま別れることになりました。

神道は理屈で説明できないものを信じることを素直にした行為の結果です。それが汎神論と呼ばれる思想です。よく欧米の知識人が「日本人は宗教を持っていないから」とコメントすることがありますが、そのコメントには欧米と日本の歴史的・文化的背景の決定的な相違が加味されていません。根本的な部分で宗教観が違うわけですから、比べるにも比べようがないのです。

自分と違うものを理解しようとすれば、自分が持っているメジャーをあてて、「違う」という確証を持つところからスタートする、そういうアプローチが一番効率的な - つまり、疲れずに答えにたどり着く - 方法だろうと思います。

“比べるにも比べようがない” と言っていては答えを得ることができないから、比べてしまう。そうやって分かったつもりの安心を求めるのです。
分からないものを分からないままにしておくことができないということでしょうか。

ヨーロッパの仕事仲間と話した例を思い出します。
よくある “仕事の効率性” をめぐる話だったと思います。
「Yes or Noを求める話しにまともに応えることができないのか?」 と半分あきれ顔に言った仲間に、「Yes and Noだと答えているのが理解できないのか?」と言ってお互いに笑いあったのです。
そこからはじめて相互の理解がはじまるのです。

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ただ少なくとも、私が言葉にしたような切り返しをするのは日本人ではない、と感じます。
私が思うに、矢作さんの言われる「欧米と日本の歴史的・文化的背景の決定的な相違」の説明を求めるのは欧米の文化観だと思うからです。

客観的な宗教観の確認や、信仰というものを見つめなおそうとするテーマからずいぶん遠回りをしているのかも知れません。ただ、私たちはどんな生活観や死生観を持ち、何に生きがいややりがいを感じるか - もっと日常的に言えば、私たちはどんなことが楽しく・うれしいのかを自分に聞いてみると、心の居場所を見つけることももっと素直にできるのではないかな、と思うのです。

囚われず、縛られず - それが合言葉になりそうだと思うのです。

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