自分と向き合うことの面白さ
「老いを楽しむ」という言葉があったりしますが、自分が今よりもさらに歳を重ね、いわゆる高齢者という年齢に達していることをイメージしようとしてみると、どうもあまり明るく考えたり、受け止めたりすることができないような気がするのはなぜなのでしょうね。
人の感覚はとかく現状維持を志向するもので、何かを変える、何かが変わるということには、私自身を含め、どうもアレルギー反応が先に立つ^^; ということをいろいろな場面で確認してきている気がするのですが、そうした心理がマイナスに働くのでしょうか?
20代のはじめの頃には、40歳になっている自分を想像することさえできないな、なんて言っていた記憶があるのですが、今なら - 実感はないとしても - 70歳、80歳になった自分を想像することはできるような気がするのです。
また、想像しなくてはいけないのかも知れませんが。
体は正直だけど
年齢を話題にしようとして抵抗感を覚えるとしたら、何かマイナスのイメージに負けているということなのだろうなと思うのですが、やはり心配や注意事項に出会うことが増える分無理もないのでしょうか。
たとえば老眼。
離せばわかるお年頃と何かのコマーシャルにあったようなことを言いながら笑って受け止められている間はまだいい方でしょう。
一日も終わりに近づく時間帯に入ってかすみ目を自覚するようになったら、体 - つまり、目のペース合わせて自分を労わるようにしてくださいね。
頭痛や首筋に強いハリを覚えるような眼精疲労をだましながら頑張るなんてことが必要な時だってあるさ、という話しも分からなくはないですが、くれぐれもご自愛を。
私も飛蚊症をかかえ、痛みのあるドライアイの診察を受けながら過ごすようになり、ヒアルロン酸やビタミンの点眼薬を使いながら、意識してPCのディスプレイから目を外して過ごすようにしていますが、ある時期を境に、そういうものだと自分の体を受け入れられるようになりました。
受け入れなければと頑張らなくてもならないほど、絶望するほどのことではないからでしょうか?
ところが、ディスプレイを見続けることができず、PCを使うことができなくなれば当面の仕事を失うことははっきりしていますから、あまり悠長に構えてもいられません。網膜剥離という警告を出され、目自体も「ここまででよし」と思える時間までディスプレイを見ていることができないとなれば、考えてしまいます。
自分の体は自分が思っている以上に年齢に正直?? ということですが、それにもまして、私たちの周り、私たちの日常には、考えてみると歳をとるということに悲観的になってしまうようなネガティブな情報が多すぎるのだろうかと思うこともあります。
私が「前向きに」取り組みたいと意識しているのもその反動のような気もしてきます。
ネガティブがある分、ポジティブもあって、バランスが取れていると思えるのならば一方的に悲観的になることもないでしょう。
自分の両親などを通して見てきた歳をとるということ、老後の姿の中に、幸せだったのだろうなと思い出せる姿があれば、不安や不自由さのすぐ隣で楽しさとか、安らぎを実感したり、期待することもできるだろうと思うのです。
自分も変化しているということを認めてみよう
もし、私たちの周りに悲観的になってしまうようなネガティブな情報が多すぎるのだとしても、私たち自身の中にも救いはあるように思いませんか?^^
10年、あるいは20年前にはとても受け入れることはできなかったろうと思うようなことも、自分に取っては過度のこだわりだと思い、流したり忘れることができるようになってくるということです。
それこそ30代、もしかしたら40代になっても、自分よりも年長の人に「まあ、そうこだわらずに」と言われることにはかなり強烈な抵抗感がありました。事の本質に正面から向き合わない、そんな半端さを感じて抵抗しようとしていたように思うのですが、最近の私は自分に向かって「まぁ、いいよ」と言えるようになっているのです。(抵抗を感じていただけに、人に向かっては「まぁ、そうこだわらずに」とは言いません^^; )
ストレスはもちろん、この自分にとって余計なものを逃がしてしまうことができるというのは、どうも歳をとったからこそできるようになったことだと思っています。変わることに抵抗を感じるとか言いながら、変わった自分とうまくつきあっているという面もあるのです。
意識していないのか、意識できないのか?? - それはそれで危ういかな^^; と思ったりもしますが、老眼だけでなく、自分でも気がつかないところが歳とっているということをちゃんと認識できたらずいぶん面白そうだなと思いませんか?