豊かさを思い出さなくてはいけない
「地獄の沙汰も金次第っていうけど、結局、最後はお金よね」
「そうそう、人間やっぱりお金がないとダメだわ」
まるで、人生の価値を測る尺度がお金であるような考え方が幅をきかせていることに、一抹の寂しさを感じることがあります。保坂 隆氏著・50歳からのお金がなくても平気な老後術 (だいわ文庫)より
お金のことを考える時期ではないでしょうね、新型コロナウィルスの混乱が落ち着かないと。
でも、新型コロナウィルスという優先度の高い問題でなくても、私たちの意識は一番手前のこと(”注目されている”らしいこと)から別のことに向くことがないみたいだな、と思いますね。
確かに、私も普段感じています。デフレとかデフレ脱却、あるいはその逆に、成功の秘訣とか効果的に成功を収めた実例だとか、なぜ不景気ありきを植えつけ、固定化するシグナルばかりがこんなに多いのだろうと。
そうしたシグナルは、実生活や仕事の現場とは距離が離れているものが多いのに、これだけ日常に目にし耳にするということは、みんなが求めているからでしょうか?? 不景気という雰囲気を共有することで、強烈にパーキングブレーキを引いているのだから、アクセルを踏めるわけもないですね。
「人生の価値を測る尺度がお金であるような考え方が幅をきかせている」のではなくて、実は私たちはそんな意識さえなく、ただ不安だけを増大させているだけなんていうことはないのでしょうか?
お金を使おうという話ではなくて、「気持ちが不景気になっているのではないだろうか」、「不景気だからこそ心豊かに暮らそう」というシグナルを共有できないものだろうかと感じる - そんな話しです。
もちろん、お金の工面に苦労したこともあるし、「生活がかっている」という言葉の意味も分かります。「地獄の沙汰も金次第」と言いたくなる思いや財布の事情というのも経験していないわけではありません。
大学で学びたいと子どもが望めば、多くの親がその希望をかなえてやりたいと考えるでしょう。私もそんな親でした。自分たちの生活、特に経済的な面を子どもの学資確保のために変化させて暮らしたものです。
年間数十万、あるいは百万円単位の見直しというのは並大抵ではありません。
新しい経済的な体制の生活をはじめるために固めた志や覚悟も、何年という単位の時間には耐えきれないものなのだろうかと思ったこともあります。ただ、だからこそ、「金で測る」ような「金にしばられている」と言わざるを得ないような価値観、生活観には何とも言えないむなしさしか残らないのです。
よく考えてみれば、そんな感覚で世の中を見ている私は、一番苦しかったところを通し過ぎているということなのかも知れません。私たちより若い、私たちに変わって職場や社会を支える年代になっている人たちの方がもっと苦しいに違いないと、自分の経験を振り返ることができるのですから。
そうした若い仲間たちを見、考えるにつけても、いつの間にか自分の中に刷り込んでしまっているような出所の知れない価値観や不安に押しつぶされていてはいけないと感じます。