インフォームド・コンセントの意味を考えよう

インフォームド・コンセントの実際を見たいくつもの場面

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2002年7月に発行された著書『阪大医学生が書いたやさしい「がん」の教科書』の中の “インフォームド・コンセント時代の患者-医療者関係” という章にこんな記述がありました。もう20年も前の本なのですね。

現在はインフォームド・コンセントの時代と言われています。この概念は日本でも必要性が叫ばれてからまだ日が浅く、日本に馴染むように様々な検討がなされています。

今からおよそ17年前に言われていたインフォームド・コンセントはどんなものだったでしょう。その当時は、私自身も私の家族や両親も健康に過ごしており、インフォームド・コンセントという言葉があることを知っていても、その意味を深く学ばなければと思い至ることはありませんでした。

その私が、2008年、強い腹痛を訴えた母に付き添って病院を訪ねた時、どの病院にもインフォームド・コンセントという言葉が受付に掲げられているのを目にしました。その病院の診察の方針というような意味合いの言葉が綴られた大きな額が掲げられていたのです。

普段の生活の中でも “インフォームド・コンセント” なる言葉を目にしたり、聞いたりすることが増え、私なりにその言葉はどんなことを意味しているのかとう概念や、医師と患者の関係はどのような方向に変わってきているのか、変わろうとしているのかというイメージを持っていました。

患者がイメージするインフォームド・コンセント

そのイメージは、これまでより前向きに治療に取り組めるのだろうという期待にもなっていたのです。

病気を十分に理解できるように説明してもらえるのだろう。治療をどうするのか、患者の意思を実現するように取り組んでもらえるのだろう。だから、患者もその内容をしっかり理解できるように、そして自分の意思をしっかり示せるようになっていなくてはいけないのだ・・・
そんなふうに。

ところが実態は違いました。イメージや期待があっただけにその違いをはっきりと確認したのです。

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(c) Can Stock Photo
期待と実際のギャップ

総合病院Aでは、レントゲン、CTによる検査のあと、そこで確認しきれない詳細を内視鏡で直接確認しようと進められていきました(当然、数回に分けての工程です)。横行結腸の一部にポリープと思われる患部があるため、検査のための組織を採取することも目的とした検査でした。ところがその検査は、なぜか分からないがカメラが患部より先に通せないという理由で中止したという結果になりました。実際には、苦痛を感じた母が検査をやめるように訴えての中止だったのです。

不信感と怖れを感じた母は、二度とその病院を訪ねることはありませんでした。

素人ながらも大腸ポリープにどう対応しておくべきかというイメージを持っていた私は、インフォームド・コンセントの本来の意味をまじえながら、検査を受けるよう母を説得しました。

総合病院Bではまず、病院Aからの検査資料をもとに最初の所見を示してもらいました。そのとき分かったのは母が期待していたような、開腹ではなく内視鏡による患部切除は不可能ということでした。ポリープの規模が大きすぎたのです。そして再度、レントゲン、CT、患部組織の採取と工程をたどりました。

結果、確かめられたのは、やはりポリープが大きくなりすぎていて開腹による手術でなければ切除はできない。ポリープの先へカメラを通せないほどポリープが大きかった(これが総合病院Aの検査中止の原因でした)。ポリープの奥側の組織を取ることはできなかったが、手前の組織に腺がんが確認された - という説明を受けました。

そして、入院はいつにしましょう。今は比較的早いタイミングで施術が可能だから早めにできますから、あさってなら良いですか? - という話しになったのでした。

がんという病気が見つかれば、それを治療する - それは誰もがごく当然の手順と考えることでしょう。

ところがこの段階で私は2つの大きな違和感を感じていました

  • がんを告知するか否かという問題はインフォームド・コンセントの中にあるものではないのだろうか
  • がんを切除するか否か、その患者の意思をどのタイミングで確認してくれるのだろうか

実は、私が感じたこの違和感は、母が持っていた怖れでもあったのです。

がん告知を常識とした?あとのインフォームド・コンセント

「自分の体に何が起きているのかちゃんと知りたい。けれど検査を受けに行けばそのまま病院や医師の思うとおりになってしまう。だから、検査さえ受けたいとは思わない」母はそう言っていたのです。

その後、2012年になって、私の質問に答えてくれた総合病院Bの医師の説明どおり、母は大腸がんの診断を受けました。それまでとはまた違う、がんセンターでした。

私が母に付き添っていたのですが、レントゲン、CTの映像を示しながら、大腸がんとそのステージを細かく説明されました。さらに腎臓がんが確認されたので詳細は泌尿器科からしてもらえるよう手配したということでした。泌尿器科でもレントゲン、CTの映像を示しながら右腎臓のがんとそのステージを細かく説明されました。

がんセンターだからだったでしょうか。告知はごく当然のことという雰囲気で行われていました。当日を迎えるにあたっては、前日、前々日から母に付き添い、診断の内容がどんなものになりそうか、それをどう受け止めることができるだろうかと話しをしていました。

その心の準備があってもなお、母にとっては “頭の中が真っ白になるようなショックだった” のでした。

『阪大医学生が書いたやさしい「がん」の教科書』の著者はこう語っています。

患者と医師のコミュニケーション

信頼関係が崩れる原因は、第三者から見るとほとんどが誤解によるものです。つまり、医療者と患者の間でのコミュニケーションがうまくいかなかったことによるものが大きいのです。
患者さんの苦情には「そんなことは聞いていなかった」とか「教えてくれなかった」ということがあります。しかし、医師の側はそれらの苦情に対し、「確かに説明した」とか、「聞かれなかったから答えなかった」などとよく答えます。どちらが正しいのかといえば、どちらも半分正しく半分間違っています。
どういうことかと言えば、「医師の説明がわかりにくいときに患者さんが聞き返さない、もしくは聞く気がない」ということが現実には非常に多く起こっているのです。医師の中には患者さんに意図してか意図せざるか、わかりずらく説明をする人もいますが、そんなときは何度も聞き返してください。がんは進行の程度、患者さん本人の状態などにより治療方法が大きく変わっていくのです。医師と患者さんとの間でコミュニケーションがうまくとれずして、がんの治療などうまくいくはずがありません。

この説明こそ、2002年当時、インフォームド・コンセントをしっかり定着させようとしていた姿勢から出たものだろうと思います。ただ、2008年以降私が経験してきてのは、すべてがそうだというわけではないにしても、残念なことが多いのです。

私も母の受診、治療に関連してたくさんの質問をし、母本人が自分の意思を示せるように補佐してきたつもりです。ところが、付き添いの私だから感じたことなのでしょうか、高齢の母には話しても分からないだろうという意味合いの言葉をはっきり口にしながら説明してくれる医師がいたことも事実です。

ことごとに私が感じたのは、医師たちはインフォームド・コンセントに煩わしさを感じている ということでした。

その質問は街のかかりつけの医師に聞いてもらうべきものだ。大学病院は切るのが仕事でそれ以外のことはやらないという説明をしてくれた医師もいました。私が訪ねたのは、医師を攻撃したり、責めたりする内容ではありません。精神面を補佐する精神腫瘍科という科をもっているがんセンターでしたので、回復が思わしくないという不安を少しでも軽くするための相談をしたいのだが(その科の先生を紹介してもらえないか)、という言葉をさえぎっての答えでした。

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患者の側にも、医師は病気と治療に関するプロだから信頼し、自分を任せなければという感覚があるでしょう。だから、医師の説明に待ったをかけてでも説明を求めたいと思う人は少ないように感じます。

聞かれたら答えるという雰囲気を感じる手続きが多く、なかなか待ったをかけることができないのも事実だろうと思います。ただ、患者もよく理解しておかなくてはならないだろうと思うのです。

このインフォームド・コンセントの概念の根底には「自分の命は、自分で決定する権利があるはずだ」という、自己決定権という権利があります。もちろん、権利には当然義務も付随するものですから「医師任せではなく自分で治療法を選ぶ権利は当然あるけれども、自分の体に対する責任も当然ついてくる」という意味合いも忘れてはならないと思います。

私がインフォームド・コンセントというものを見たり・聞いたり、そしてこんなふうであってほしいと考えるようになってから15年前後の時間が経っているのですが、今の「インフォームド・コンセント」はどれくらい私たち自身のためになっているでしょうか?

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