歴史の真実が見える - 『利休にたずねよ』

世界観、歴史観を反転させる物語

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テレビや映画、小説を通してさまざまに触れてきている戦国時代は織田信長、豊臣秀吉、あるいは徳川家康を中心に回転していた - そんなイメージを持ったまま読めばきっと、”目から鱗” を感じさせられる作品です。

主人公は千利休。戦や政治を中心にした戦国時代の三大人物の側から見れば脇役と思われていた人物 - その利休に世界の中心を移してみると、歴史観が反転する - 視点が変わるのだから当然だろうと思いつつも、それを体験させられるのはある意味ショックかも知れません。

物語を読み進めてみると、その場面場面に、これまで色々に見て、読んで知っていた秀吉、家康、あるいは三成の物語の場面が重なるような錯覚を覚えることもあるでしょう。その立体感こそこの作品の、一番の魅力なのではないかと思うのです。なぜこの作品が直木賞の評価を受けたのかが、分かるような気さえするのです。

利休という人の本当の姿とは

利休が生きた茶道の世界とは
FreeImages.com/mokra

それにしても、利休という人は、本当にこういう人物だったのだろうかという思いが強く残ります。利休は、自分の一番自然な姿、自分らしさ、あるいは自信と言ったものを誰に教わったのだろう、どのようにして摑んだのだろうと感じるのです。

彼に出会う人は誰もが、それほどに自信に満ちて、揺るぎない人物だと感じたのではないかと思わせる利休が描かれています。

それは、利休がそうだったというよりは、見る側がどう感じたかということなのかも知れません。利休自身にブレがない - 茶道を追求しようとするストイックな厳しさがあるから、見る者は緊張して受け止める。緊張して受け止めるから、その厳しい一面だけが強く印象に残る、残ってしまう - そんなことを考えさせられます。

利休を取り囲む多くの登場人物が利休を語る - その構成がなおさら、物語に説得力を持たせています。

利休の強烈な “上から目線”、あるいは対等な目線に秀吉がいらだっていたというのは、この物語でも変わらない姿です。

 ・・・ あの男に、なんとか一泡ふかせてやりたいもの
ほろほろとした陽射しのなかの東山の峰のつらなりと京の町並みを眺めながら、秀吉は利休のことを考えていた。

(中略)

 「まず第一は、用心のことにございます。治乱見さだめがたきいまの世におきまして、主客が無刀で狭い席に集まり座るなど、不用心この上ないことです」
「たしかにな」
利休が茶頭になるまでは、茶室といえども、客は脇差を腰に帯びたまま入った。
大刀だけを外の竹釘にかけれおけば、それでよしとされていた。
ところが利休は、茶席での争いごとを懸念して、外に刀掛けをつくった。脇差もそこに掛けて入るように求めたのである。

(中略)

 「わしが茶の湯をたしなむのは、おまえのいうた害悪をさしひいても、なお余りある効用があるからだ」

利休切腹の前年とされた、「野菊」の章

黒田官兵衛と秀吉の間で、利休が語られる一節です。歴史の中心の側にいるはずの人物が実は、利休の力を利用しようとするが故に、その利休の側から見られていていたということを感じさせるシーンです。

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徳川家康、石田三成、そしてイエズス会のヴァリニャーノ、あるいは妻の宗恩、そうした数多くの人々が語る茶の湯や利休についての言葉に触れるからこそ、秀吉の想いがよく分かるのです。

『利休にたずねよ』 - 何をたずねよと言うのか

利休が切腹する日から数年をさかのぼるこの物語は、もしかしたら利休の心を支えていた女性がいたのだと感じさせながら進んでいきますが、その一方で、ひとつひとつの場面の登場人物が、利休の想い、その真意を知らぬままだったのではないだろうかという疑問も残ります。それでも、利休の周りの歴史は動いていた、そんな不思議が伝わってくるのです。

利休にたずねなければならないこと、それが何を指しているのか、是非探してみてください。

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