母のがん闘病 - 手術するか・しないかの選択は、生きるか死ぬかの選択だった

“がん切除” という選択の意味が分かってきた気がする

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母本人は、”がんを治療する” 覚悟で臨んだ手術。けれどその母は、がんによって命を失うことになりました。

母を見送って、私の中には「あの手術は母のためになったのだろうか」という思いが残っていたのですが、母が他界してから3年近い時間が経った2017年当時、義母が受けた余命宣告をめぐって、母の手術が正しい選択だったのかどうかが少しずつ分かるような気がしていました。

母はなぜ、がん切除の手術を受けたのか

私の母は、「無駄な延命治療は受けたくない」 と言い、「薬や病院の助けなしでは生きられない生活は嫌だ」と言って、がんを発病する前の大腸ポリープの手術や治療を拒んだ人でした。
母は、そのとき受けた医師の警告通り、5年経って大腸がんの宣告を受けることになったのですが、その時も、「もし手の施しようがないという状態なのであれば、手術も治療も受けようとは思わない」と言っていたのです。

その母が、自分の思いを翻して手術を受け、その後の検査や診療を受けたのは、命を諦めてほしくないという妹の涙や、せめて自分の年齢くらいまでは命を長らえてほしいという、先に他界した父の思いに触れてのことでした。

母にしてみれば、”無駄な延命治療” と思ったままでは自分を支えることができなかったのかも知れません。手術を受ける以上は、目指す年齢までは命を全うするんだという覚悟が必要だったのだろうと思うのです。

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(c) Can Stock Photo / jameschipper

振り返ることがなかった母の闘病

結果的に、母は転移した腎臓がんによって “治療” の望みを絶たれてしまったのですが、手術に踏み切った自分の選択を恨めしく思っているとか、誰かのためにこんなに苦しまなくてはならなくなったというようなことは一言も言わなかったし、私たちに感じさせることもありませんでした。

母が振り返るような言葉を口にしたのは2度だけ。
最初の大腸ポリープから5年経って大腸がん(しかも、甲状腺と腎臓を同時)に侵されていると分かった時に言った、「こんな病気になってごめんね」という言葉。

そして、がんセンターを離れ、終末ケアをしてくれる施設に転院する時に言った、「行きたくないなぁ」という言葉だけでした。

母を苦しめた手術後の経過

母に手術を受けさせたのは間違いではなかったのか - 止めることはできたのだろうか…
母を見送ったあと、私がその思いを振り払うことができなかったのは、そんな母の思いのそばにいて、母が意思を決定する瞬間瞬間に立ち会っていたからですが、母の病状を見続けたせいでもあるだろうと思います。

大腸と腎臓がんの切除は8時間を超える手術でしたが、その後の経過に問題はなく、体力の回復も順調でした。
順調だったからこそ、甲状腺の切除にも踏み切ったのです。

ところが、甲状腺切除とリンパ節郭清の手術は、大腸がん・腎臓がんを乗り越えたという母の自信も、痛みを越えて少しでも長く生きるんだという望みも根こそぎにするほど辛いものだったのです。

母の甲状腺がんは残念なことに気管に浸潤していました。
気管という組織は皮膚や内臓とは違い、患部を切り取ったら、あとを縫合して塞ぐというわけにはいきません。

そのため、浸潤したがんとともに一部を切り取られた気管には穴が開いたまま。そして、甲状腺を切除したあとの首にも穴が開いたままという姿は、家族にとってもとても見るに堪えない、痛々しいショッキングなものでした。

そして何より、穴の開いた状態の気管で飲むもの・食べるものにむせ、さらに傷口が治ろうとするときの症状に苦しみつづけたのです。
手術前の診察の時にかなりの時間をかけて医師に相談し、確認したつもりでいても、この苦しみだけは説明もしてもらえなかったし、想像もできないものでした。

それが私の迷いの元にもなったのです。

母の闘病 - それは生きるという選択だった

治療する という覚悟で手術に臨みながら、その思いを果たすことができずに命を失ってしまったことはとても残念なことでした。

けれどその選択は、「生きる」という選択だったと今は思うのです。

手術によってもしかしたらがんを克服できたでしょうか? 転移がなければ今もまだ回復途上にいることができたでしょうか?
それは誰にも分かりません。

手術を勧めてくれた医師でさえ、「それは分からない」と言っていたのです。
手術がうまくいって余命を長らえていたとしても、母は医師と病院なしに生きることはできない体になっていたかも知れません。しかも、手術が成功して転移なく過ごせてもと、医師が示していた生存期間は5年。

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転移がんに奪われたけれど、母の闘病の時間は最初の手術直後から数えてほぼ、ちょうど2年。

5年か2年かという結果になってしまったと言っても、母は「生きる」ために時間を過ごしたと思うのです。

検査も治療もせず、痛みに襲われたときにだけケアをしてもらう - そうした過ごし方もあったはずですが、そのゼロかマイナスの待つ時間ではなく、希望や願いをかけて働きかける時間を過ごした、そう思うのです。

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