職場での出会い - その意味を確かめる
新卒のあたらしい仲間を職場に迎えようとするとき、面接と称して、その人となりを知ろうといくつもの質問をしたことがことを思い出します。
そして、その質問に答えようとした、今は職場の仲間となっている人たちの言葉を思い出すことがあります。
かつては自分もそうした、若く、新鮮な目で仕事というものを想像し、期待もし、恐れもしていた。何より今の自分は、仕事を覚える、社会人になるということがどういうことを分かったつもりになっているはいるけれど、当時の仕事に対する期待や恐れはどうしたのだっけ? - そんな自分への質問を頭の中で反芻しているのです。
仕事について数十年の時間がたっている人間に期待も恐れもないだろう - そんな、言葉にならない意識があちこちから聞こえてくるように思います。期待や恐れを経験に置き換えてきたからこそ今がある。その熟練があるから今の仕事、今の会社を支えていられるのじゃないか! 自分たちも戸惑いや挫折の中から自分を支える力をつかんできた、若い者はそのあとをたどればいいのだ! - そんな、語る本人も意識しない先輩としての自然体があるのです。
そして…
それのどこが問題なのだと言いそうになる自分に違和感を感じているのです。
その想いが理解できるだけに、けれど一方では、”自分もかつては同じように期待や恐れを持っていた” ということを思い出しているだけにです。
経済事情にかく乱されてきたとしても
たとえば、経済的な厳しさ、むずかしさにかく乱されてきた私たちは、期待や恐れを二の次、三の次にしても、現状に対処しなくてはならないと思っている - そんな一面を持っています。
期待や恐れ - こんなふうに仕事をしたい…. 自分の力を育てたい… 役に立てるだろうか… と思っていたとしても、それはあるレベル以上に、会社経営が健康でいてはじめてできることということもある。
期待や恐れを優先することで飯が食えるのならば誰も苦労はしないと言わんばかりの意識に押されているのです。ところがその一方で、仕事に対する意識や気概、判断力を確認するのだと言って、若い人たちに志望動機を聞いたりしているのです。
私たち先輩は、夢と現実のそのギャップを、質問しながら意識していたでしょうか? 夢と現実のそのギャップを、教育訓練とか新人教育と呼ぶ時間の中で、伝えようとしているでしょうか?
どうすれば、彼らの期待や恐れを実現できるのか、いっしょに考えるということを忘れずにいるでしょうか?
面接という時間は会社が新人を評価する時間であるとともに、新人が会社を評価する時間でもあるということをしっかり意識できていたでしょうか?
たぶん私のこの感覚は、とてつもなく “青臭い” 感覚に憑りつかれいる… と失笑を買うのだろうと思います。
しかし、身辺整理という言葉を自分自身の再確認という言葉に置き換えたとするとこの青臭い、けれどベテランには説明ができないのかも知れない疑問に、自分なりの答えが必要だと感じるのです。
この数十年の意味を自分に納得させられるだろうか、と思うからこそ。