なくてはならないものだけれど、普段は触れたくない? お墓はそんなもの?
たしかに、終活とかお墓の話というのは「いずれ必ず必要になることだから」と割り切ってみようとすることさえ、ストレスな話しではあります。ある意味、罰当たりな話しだなとは思うのですが、今の私たちには正直な感覚のようにも思います。
生前、墓所は、あそこにしようかここにしようかと話したこともあったのに、結局自分では何も決めずに逝ってしまった父のことを思うと、そのストレスさがなんとなく分かるような気もします。
ただストレスな話しだからこそ何となく後回しにしてしまうという雰囲気というのは、禍根を残すとまでは言わないにしても、課題を後回しにすること(のような気もします)。
両親との経験があるだけにそんな気がします。
祖先を大切にしたい - その意味でもお墓は大切なもの… そんな意識もなくはないだけに、この相反する問題、何とかならないだろうかと思うのです。
お墓は誰のもの? 誰が守る?
そもそも、お墓は誰のものでしょう?
わが家は(少し説明は必要ですが基本的には)信仰がなく、お寺さんとの付き合いもありませんでした。
両親が亡くなったとき、石屋さんが運営する、信仰を問わないメモリアルパークと言われるタイプの墓所に二人の遺骨を納める墓を求めました。
その一方、二人いる義弟の家はそれぞれ、お寺さんとの付き合いのある檀家として続いた家の息子でありながら、片や、法要の習慣もあれば手順を聞きながらお墓を守ろうとする。
片や… 法要の習慣も手順にもうとく、これからどうするつもりだろうと心配になるほどの二人でした。
ただ、信仰がある・ないに関わらず、親族が亡くなれば死亡届を出し、火葬許可を受けて荼毘に付し、埋葬許可を得て遺骨を… と手順を進める必要があります。ここから先は今はどんなオプションがあるのでしょう? いずれにしても、遺骨は何らか法律に則って葬らなければならないことは、言うまでもありません。
だから、お墓は誰のもの? 誰が守る? という疑問が消せない気がするのです。
お墓に限ったことではありませんが、「家督」という言葉を思い出すと、「息子」に視線が集まりますよね!?
お墓は長兄・長女が考えること⁇
「家長」「家督」、そして「部屋住み」は今ではもう使わなくなった言葉だと私は思っています。
私も直接はそうした言葉を使っていたわけではなく、知識として知っているに過ぎない… あるいは、そういう雰囲気が残った中で育ってきたに過ぎません。
ただ、言葉の意味、言外に求められているもの・ことは分かっているような気がします。
母の通院に付き添い、病院にいれば、診察や検査結果など諸々のことを、母本人でなく私が聞かされ、判断を求められる -
そして、母への輸血を続けるべきか否かを問われたとき、母の保護者として、また一家の長男として、意思決定を求められたり、しないといけないと思っていたのは、長男=家長=家督 という意識のつながりからだったろうなと思うのです。
どの言葉も Wikipedia に説明されています。
家長(かちょう)とは、一家の家督を継承して家族を統括し、その祭祀を主宰する者を指す。当主と同義の言葉とされている。
家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。
(中略)
明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。
そして、
部屋住み(へやずみ)とは嫡男であるが、まだ家督を相続していない者のことを言う。次男以下であり家督を相続できない者であり、それがまだ分家・独立せず親や兄の家に留まっている状態の者のことを部屋住みと言うこともある[1]。
今の世の中、「家長」とか「家督」という言葉はもう表立って使うこともできない言葉なのでしょう。
そして、私たちの世代以降よりあとの世代になれば、こうして雰囲気のようにただようもの - 暗黙の了解ごと- は無くなっているんだろうなとは思うのです。
お墓のことは誰が考えたり、進めたりするものなのだろう⁇ という疑問の答えが、こんな言葉の間やそれぞれの言葉を受け止める私たちの感覚の中に隠れている気がします。
私は、お墓の問題には長男・長女、あるいはその人たちにつながる人たちが対応すべきと思っているわけではありません。長男・長女が置かれた、そういう立場を「是」とするわけでもありません。
ただ、長男・長女は自分たちの立場を教えてもらったり、支援してもらったりという環境があるといいなと思うのです。
相続の重要説明事項はたぶんお墓
相続というのは家督(や何らかの財産)を保有している人が亡くなって、その家督をどう引き継ぐかという事後処理の形で行われるものというイメージが強いように感じます。
被相続人が亡くなったとなれば、相続する側の人間もある程度覚悟が決まっているでしょうし、相続そのものへの集中もしやすいからかも知れません。事前(生前)にやろうとすれば、何かとストレスのもとになるからなのでしょうし、もちろん税金も関係しているでしょう。
ただ私がここで考えているのは、登記(名義)を移すとか移さないとかいう以前のことです。
自分の父親など、世帯主が健在のときに家督のことを伝えたり、共に考えたり、ちゃんと受け渡そうという発想にほとんどの人がならないのは何故なんだろう⁉︎ ということです。
そういう感覚になることが普通なのではないのだろうかと感じるのです。
ところが、私の一家に限らず、私の周囲ではそういう環境にないのです。
お墓をめぐっては、もしかするとみんな同じような苦労を同じようなところでしている(と私は感じるのですが)。けれど、人生一回きりのことだから、そのときに考えればいい.. ということなのでしょうか?
父と意識を合わせて話し合うのが大変だったと記事にしてきたのは、
- 両親が亡くなったときに(葬儀をはじめいくつかの手続きを)どうすればいいかということ、
- 実家(不動産)をどうしたいと思うか・どうできるかということ
でした。
世代の違い、人生観・家族観の違い、家とか暮らしに対する価値観の違いは、家督とか家長としての責任などより以前に、確認しなくてはいけないことのような気がしていたのです。
だからでしょうか。両親が亡くなってみると、お墓というのは、親から子への重要説明事項みたいなものだなと感じたのです。(もしかするとそれも、私自身が第一子の長男だからだったのかも知れないのですが)
信仰もなく、お寺との縁がないにも関わらず、私は亡くなった両親を大切に扱うべきだと思っています。
信仰もなく、お寺との縁がない私がこの感覚を伝えようとしたら、どうしたらいいだろう? と思ったりするのです。
終活はどうあるべきか。
どのように終活を進めるべきか - の答えがほしいのですが、分かってきたのは、
「こうしたい」「こうしよう」と感じる私たちの思いと、お墓をめぐる法律や習慣は少し違うところにあるいらしいということです。
法律や習慣が実体に沿っているかどうかというギャップにぶつかるかも知れない - そのことは覚えておくべきのような気がするのです。
もちろんそのまま「私には大切なものなんだ」と伝えればいいと思います。
けれどそれは、私のところ(私の代)で終わりです。少なくとも私にとっては。それ以外にない、ということは理解しているし、自分たちが選んできたことだとも分かっています。
ここから先は、私たちの子どもたちが選ぶ番です。それも分かっています。
だからこそ、と言っていいのでしょうか。
これでいいのだろうかと感じるのです。