終活 - 家族と話し合う 自分の “もしものとき”

要再検査という小さな? きっかけ

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家族の心配は経験に対する理解があればこそ
守りたいのは
(c) Can Stock Photo

「そんなに心配しなくても大丈夫だから」と言っても心配のすべてを家族の意識からなくしてやることができない - そんなこと経験がありませんか?

よく考えてみれば、一年に一度同じ時期に通って診てもらう健康診断も同じように繰り返し、自分の健康を確認するために受けているものなのですが、一度要再検査の紹介状を書いてもらったりすると、たとえその結果は「問題はありませんね」というものだったとしても、今後は定期的に検査するようにしましょうねとあらためて言われたとなると、それまでの健康診断とは違うもののような気がして、何か重いものを抱えこんでしまう そんなことがあるのですね。

ある程度の年齢になれば健康上に要注意の項目のひとつ、ふたつがあるというのは珍しいことではないのでしょうが、病院の先生の中には軽く? 励ますつもりなのか「癌でないことを確認しておいた方が安心でしょ」というような微妙な言い方をしてくれる方もおられるので^^; 聞かされた家族にしてみると “穏やかではない” ということになったりするのですね。

体調が悪いとか、癌の診断を受けたわけではないのに、もしかすると過敏と言われるかも知れない受け止め方をしているのかも知れないのですが、
わが家のように、癌の告知というものが癌の診断というくらい、 - 晴天の霹靂ではなく、あってもおかしくないものだという経験をしていればなおのことです。

家族の思いに寄り添うなら

経験を積んでも、命に関わる(かも知れない)ことは、なかなか簡単にはわが身に置き換えるということができない、そういう心情があることを覚えておかなくてはいけないでしょう。

to love your family, to know their mind
(c) Can Stock Photo

ともあれ、心配だという家族の思いの中にどんな気持ちが潜んでいるのか、家族は何を心配しているのかを確かめてやる - 以前、「終活適齢期」という記事を書いたことがありましたが、もしものときへの備えは、そういう日常の中でこそ蓄えることができるものなのだということも忘れてはいけないなと感じています。

心配と感じる思いには、言葉にすることが憚られるということがあるでしょう。

もし癌だったら、手術や抗癌剤治療をどうすればいいのか、そうした医療を受けてちゃんと治るのだろうか•••なとなど。
なまじ、癌との闘病を間近に経験していれば、ある意味現実味のある心配を - 対象がはっきりしていれば、恐怖と言ってもいいのかも知れませんね - 感じてしまうということがあるのだろうと思うのです。

そうした心配が大きいほど、それをそのまま口にしてはいけない、口にしたくないという心理が働くようにも思います。
家族の中で必要なことは、そうした気遣いからくる遠慮が原因となって、互いの気持ちが離ればなれになったままにならないようにすることだろうと思うのです。

本当の気持ちを大切に扱うために、辛いことを話すとしたら

もちろん、本当の気持ちに触れることがいいかどうかは、家族のひとりひとりによっても違うでしょう。ひとつの出来事を、家族の誰かが、同じ気持ちで受け止めることができないとしても少しも不思議ではないのですから。

けれど、そうした違いをひとつにして、家族として向き合うことができたなら、心配のその向こうに辛さがやって来たとしても乗り越えることができるのではないか、そう感じます。
不安や心配があるように、望みとか期待とかがあってもいいはず。そう思うのです。

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そして、そういう望みや期待を見つけたい、できれば共有したいと思うから、もしものときということをあえて言葉にし、話そうとしているのです。

要再検査をきっかけに、大きくなってしまった私の健康に対する心配、そして私のもしものときについてを共有したいという思い。大人の死生観を押し付けることなく限りあるいのちをしっかりと受け止め、それでもなお、互いに望みや期待を持てる人生観にたどり着くことができるしょうか。

to be continued…

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