終活 - 心の持ち方、あずけ方

みんなひとりではないのだ、ということ

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また最近は、葬儀や墓に対する意識もずいぶん多様化してきました。直葬と言って、通夜や告別式は割愛し、ご遺体を棺に納めたら火葬場へ直行するという簡素な葬儀が増えているそうです。既存のお墓に入ることを望まず、散骨や樹木葬など、後々子孫に負担がかからず、「家」に縛られない方法で葬ってほしいと希望する人も増えています。

出典:NHK ラジオ深夜便 2019年4月号・「五木寛之のラジオ千夜一話」

この言葉は、今年の1月の放送で五木さんの言葉の一部だったようですが …
その放送(そのものを私は聞くことができませんでしたが)があったのとほとんど同じ時期、この言葉に語られている、葬儀をめぐる家族の思いとか年齢ということを感じたり、考えたりしながら母方の叔父の葬儀に出席していました。

もし、子どもの負担にならないように… と思うのならば、たとえば、五木さんが語っていた言葉を借りるなら、「後々子孫に負担がかからず、「家」に縛られない方法で葬ってほしい」とは思わないのだろうな、と感じていたのです。

「後々子孫に負担がかからず」というのは、ひとつには、法事の時期や作法、お金に煩わされず… ということを言っているように思います。ただ、「「家」に縛られない」ようにするにはこうすればいいんだと、残される家族にアドバイスするのでしょうか?

「「家」に縛られない」方法はまかせるから… と言ったとすれば、それが家族の負担になるということはないのでしょうか?
故人がアドバイスをしたとして、そのアドバイスに沿って葬るという自体、残された家族の心に負担にならないという確証を持てるのでしょうか? - そんな疑問が残るのです。

「「家」に縛られない」ようにと願うとしたら、なぜ「葬ってほしい」と願うのだろう? - とも感じます。

 

叔父は、「どう葬ってほしい」ということはもちろん、自分の老後とか晩年というようなことを家族にも友人にも語ったことがない人だったらしいと、葬儀の席に集まった人たちと交わした言葉で知りました。

その一方、私自身は、「もしものとき、どう送ればいい?」と両親と話したことがありました。
それは、私の両親の思いを実現することが私自身の心の安定になるだろうという思いもあったからです。

私よりはるかに年上だった叔父はそうした遺志を残さず、家族もまた、どう送るべきか・こういう送り方でおかしくはないだろうか・親族に受け入れてもらえるだろうかと迷いながら、自分たちの感性が選ぶ方法と手順で葬儀を営むという選択をしたのです。

通夜のない葬儀でした。けれど直葬ではありません。
告別式と初七日の法要を兼ねたお別れをする葬儀でした。そして、その後四十九日を待って納骨をしたそうです。

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五木さんの話しにはこんな言葉が続いています。

人生百年時代は長い人生をどう生きるかと同時に、「自分はどのように逝きたいか」を、私たち一人一人が真剣に考え、周りにも伝えておかなければならない時代と言えるでしょう。

そして、叔父を送り、ひとときを叔父の家族と過ごしたあとの私も、「周りにも伝えておかなければならない」… そのことをどう実践すればいいかを考えなくてはいけないように感じています。

できることなら、自分の家族といっしょに考えることができないだろうかと思いながら…

 

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