診察や治療はどのように話し合われるか
がんを相手にした母の闘病に付き添った日々を思い出してみると、事前に如何に多くの情報を持つことができるか、身近により多くの情報がそろっているかどうかによって、その時の対応 - どんな検査・治療をうけるか、はては最期をどこで、どう迎えるかということさえ - が決まるのだなということを感じます。
私たちはどれほど準備できているか
思い出してみると、事前に如何に多くの情報を持つことができるか、身近により多くの情報がそろっているかどうかによって、その時の対応 - どんな検査・治療をうけるか、はては最期をどこで、どう迎えるかということさえ - が決まるのだなと感じます。
家族の誰かががんの診断を受けた - どれほど冷静な対応を心掛けていたつもりでも、その対応はちょうど暗闇にヘッドライトをつけて車を走らせるようなもので、限られた視野に対応できるようスピードを落として運転しているのによく似た状態になります。
ライトで照らされた明るさの中に小さな動物が飛び込んでくるかも知れないし、その灯りに向かって虫が飛んでくるかも知れない。雨が降りはじめれば視界はさらに悪くなり、さらにスピードを落としたりより強い緊張を強いられることになります。
がんもかなりステージが進んだ状態になってしまっているとなれば、直観的に
- 患者となった家族の入院
- 患者本人をどう支えるか(見舞いや看病など)
- その連れ合いや子どもの世話をどうするか
- 家の管理をどうするか
そうしたプレッシャーに対応しようとするでしょう。
一度診断を受け対応を開始すれば、手術や放射線・抗がん剤による治療とそれに対応する感覚は、まさしく闇の中を走りはじめた車とハンドルを握るドライバーの関係と同じです。
- がんそのものを正確に理解しようとするにしても
- どのような手術や治療が必要になるのか
- どれくらいの期間、入院が必要になるのか、そして
- その入院にはどれくらいのお金が必要になるのか
- 手術のあとにはどのような投薬や治療が行われるのか
- どれくらいの期間の治療と通院による経過観察が必要になるのか、そして
- その治療・経過観察にはどれくらいのお金が必要になるのか
と、連続する確認と判断、決断を求められる実際の対応の中で行うことになります。
終末期の緩和ケアに移行しなくてはならないという病状ともなれば、ハンドルを握る車の速度があがるのと同じで、そこで求められる判断と決断、経済的な負担や精神的な負担の度合いも高まってしまいます。
- 病室を離れ、在宅で緩和ケアを受けることは可能なのか
- そもそも緩和ケアはどんなもので、何を準備すればよいのか
- 終末に向かって病状は、体はどうなるのか
- 介護申請との関係はどう考え、準備すればよいのか
病気の進行に対する不安と同時に、行政手続きを含め、対応しなくてはならない項目はそれまでの病院の中でのものとは違ったものになります。
特に、行政がらみの手続きを含む工程・項目は、確認、検討、手配は、病気治療の延長のように感じますが、病院に頼めるものではありません。どんなケアを受けることができるのか、その経済的な情報や行政上の手続きについても患者(と家族)が確認し、自分の手で行わなくてはなりません。
インフォームド・コンセントをめぐる反省は
今のインフォームド・コンセントが「求められる情報には応える」という意味合いが強いということも、その段階になって初めて分かることです。聞けば教えてもらえるということは聞かないことは分からないまま。
これは、特に私たち患者となるかも知れない “医療機関を利用する側” の意識の問題として捉えなくてはいけないと感じていますが、たとえば診断の初期の段階でも、患者(や家族)が知るべきことはとてもたくさんあると思うのです。言い換えれば、不安のすべてがその対象になるでしょう。
- 身体のどこがどのように侵されているのか
- その病気はどのように進む(と思われる)のか
- 身体は、普段の暮らしはどうなるのか
- どのように治療・投薬する選択肢があるのか
- 治療・投薬の副作用で身体にはどんな負担がかかるのか
- 治療・投薬がうまくいったらどんな経過観察や検査をするのか
- 治療・投薬がうまくいかなければ身体はどうなるのか
- 転移はどのようにして分かるのか、分かったときに治療の手立てはあるのか
などなど
医師の多くが説明してくれるように、「(症状も副作用も)患者さん一人ひとり千差万別で一概には言えないのですが・・・」ということは確かにその通りなのだろうと思います。しかし、その言葉に続く説明の本体が一般論として聞こえてしまい、私の(家族の)場合はどうなのだろうという、私たちが知っておくべき問題の核心が分からないまま先送りになります。たとえ一般論だとしても、こんな不安すべてを受け止め、答えをくれる主治医を私たちは求めるものだろうと思うのです。
もちろん、一人の主治医にすべてを求めることはできないという常識が働きますね。
だからこそ同じ意味で病院も、そうした精神面をサポートしてくれる部門を持っているところがほとんどでしょう。行政がらみ、つまり介護を受けるにはどうすればよいかということにもアドバイスをくれる部門です。
けれど、そうした周辺の情報は患者(と家族)にとってのは、ちょうど暗闇を照らすヘッドライトの光の外側になっていることが多く、疑問や不安のすべてを解消することができないまま進んでいる - 少なくとも私たち家族の場合はそうだった - と思うのです。
まず入院して検査をはじめましょう - そうして入院生活をはじめても、主治医に細々とした疑問や不安を相談する時間の隙間はまずありません。検査が進み、その内容が確認されれば、その判断された投薬が先にはじまり、説明があとから来る。
精密な検査の結果をもとに(治療方針を含む)診断が下され、何をどうするのかの詳細が説明される。その質疑応答の段階で別の選択肢が示されることはありません - 少なくとも私たち家族の場合はそうでした。
入院手続きの時にオリエンテーションしてもらえるわけではありません。
病室に入ってから、いつ話しができるかと尋ねても検査が終わらないと・・・ということが多いでしょう。
投薬を拒否した場合にはどうなるのか、(患者だった母の意向に沿って)そんな質問をしたことがありました。しかし、余命にどんな影響が出るのか、身体がどうなるのか、そうした具体的な疑問を率直に尋ねる勇気が患者(や家族)の側になければ、そうした質問自体が成り立たないのです。つまり、納得した治療を受けたい、患者にとってより適正なインフォームド・コンセントのもとに診察をしてもらおうと考えるのであれば、患者(や家族)の側の努力も必要だろうと思うのです。
To be continued to 「インフォームド・コンセントとは」…