自分の至らないところ - これからでも補うことができるのだろうか

振り払ってきたんじゃなかったかな?

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長男として母の生死に関わる決断をはっきりつけてくれなくては困る!…
そんなことを言われた記憶があります。

長男なんだから…
考えてみればこの発言、ずいぶん古いなと思うのです。

今風に言うとしたら、パワハラではないかも知れないけれど、姉妹に言われたとすれば逆セクハラか!? と言えそうな感じさえします。今の人たちはどんなふうに感じるのでしょうね。

ずいぶん古いなと思いながらも、私の世代は何となくその意味が分かってしまうのが悲しくもあります。
私には、長男なんだからやってあたりまえ!? と扱われることにそれはそれは強い反発を感じて、そうした扱い方を「理不尽」と呼んで反抗した記憶があるから尚更です。

どこが理不尽かと言えば、
こちらに求めるときには「長男扱い」することで自分の言い分を通そうとするのに、
その求めに応じて何かをやったとしても、労をねぎらうということはない…
こちらから、長男としての責任を果たさなくてはならないから、これこれのことをやってほしいと頼んだとしても長男への敬意をはらうわけでもない…

長男なんだから… の一言を 古い! と感じる私でさえ、責任と義務、そして権限ということを見て覚えてきた記憶が残っています。

残念なことに、長男だということに慣らされる・躾けられてきただけで、家族観とか兄妹観を教えられたり、諭されたことはないのです。
冠婚葬祭のようなシチュエーションであれば、上だとか下、上座や下座、順位を判断することはできます。ところが、より良い長男はどうあるのがいいだろうという価値判断 - 言ってみれば、長男べき論、兄妹べき論 - のような部分は、意見を交わしたり互いの価値観を確かめたりという経験がないのです。

だからでしょう。長男だからやってあたりまえ!? と突然のように扱われれば、いったい誰が決めたことだ!? と反発したのかも知れません。

それでも、その記憶が残っているだけに、自分の知識や経験がとても中途半端なものだということも分かっています。

核家族化や個性の尊重に共通するもの

ところが、長男なんだから… の一言は知っているけれど、
長男はどうあるべきか、そして次男・次女、あるいはそれより若い兄妹たちはどうあるべきか、知らないまま大人になった兄妹とは、どうつき合ったらいいのか戸惑うことさえあります。

義理の弟の親にあたる人に不幸があったとすれば、その連れ合いは自分の兄妹。

その兄妹の実家の長兄となれば、どんな心配りをするべきか、どんなふうに振舞うべきか - それは躾と記憶を頼りに兄妹を守り、義弟を守るための判断をするだろうと思うのです。
家族葬のごく内輪だけで済ませることにしたから、と言われればそれなりの判断が働くものです。

ただ悲しいことに、(繰り返しますが)理不尽! と反発してきた習慣なのに、その判断は義弟に義弟としての義理を尽くすことを求めているのです。

聞かなければ説明がないというのは兄妹なりの考えがあってのことでしょう。
兄妹に説明させている義弟にもそれなりの考えがあってのことでしょう。

文字通りのジェネレーションギャップなんだなとというだけの話しなのですが、その兄妹・義弟とはたかだか3つくらいしか年齢に差がありません。

つまりは、兄妹や義弟、自分自身も含めて、何とも半端な世代だなと思うのです。

「核家族」という言葉は、自分は自分! と言っていた自分の言葉につながるような気がしています。
そういう私たち子どもを扱いかねて、独立を許してくれたという面が親たちにはあっただろうと感じます。

けれど、私のような子どもが 理不尽! と感じていたものを、どうすれば互いに納得できる形にできるだろう? と相手の話しを聞こうとするような雰囲気はなかった。そういう発想自体が私たちの世代のものだからも知れませんが。

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それこそ、三歩下がって師の影を踏まず… で躾けられた私の親たちにしてみれば、「孝」ということを教えたはずだ!? と言いたかっただろうとも思うのです。

男だから、女だから、長男なんだから、結婚して身を固めたのだから… そうしたネガティブの香りが残っている・いそうなものは、たとえ「孝」のようなポジティブなものが残っていたとしても、一緒にして遠くに押しやってきたみたいだ - 今はそう感じているのです。

義理とか不義理ということの意味が、自分は感じるようになっているんだなと思いながら。

 

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