私たちも見失っているかもしれない日本人らしさ!?
変わってきたと思っている私たち日本人のものの考え方とか感じ方、行動の仕方。
私は、ドイツやフランスなどヨーロッパの仲間とコミュニケーションを取りながら仕事をすることが多いのですが、ヨーロッパの仲間、あるいは顧客のものの考え方、感じ方、行動の仕方が私たちとは違う! ということを折に触れて感じています。
ヨーロッパの仲間に時おり感じる “違い”、それは日本の仕事仲間に感じる “日本人” の裏返しかも知れません。
「文藝春秋SPECIAL 2017年夏号[雑誌]」の中にこんな言葉があります。
日本文化は和の文化である。日本人は和を大切にする。和の心こそが日本人の美徳であり誇りである。昨今テレビや新聞などのメディアを賑わせているテーマの一つが、こうした日本人の和の心礼賛論である。それでは、誰もが当然と思っている日本人の和の心とは何だろう?日本人が大切にする和とはいったい何を意味しているのだろう?
(中略)
こうした調査の結果を見ると 、日本人の美点とされている和を大切にする心とは 、まわりの人たちとの間で積極的に協調関係を築いていこうという気持ちというよりは 、まわりから嫌われたり波風を立てるのを避けようとする気持ちに近いように思われる 。
出典:山岸 俊男 氏著・『日本人よ、「びくびく」生きるのはもうやめよう』
社会心理学者の山岸俊男さんは、世界21か国で調査をしてそんな結論に至ったと言うのですが、たとえば職場の仲間との関係、あるいはこれまでの職場での経験を振り返ってみると、「そうだろうな」と感じます。
「積極的に協調関係を築く」というのは、少なくとも、オープンでフランクな人間観がなくてはできそうにないと感じるからです。
そして、その一方、私たち日本人はどうかというと、オープンではない - ある意味、オープンでないことが日本人の礼節を守っているのではないかと思うのです。
山岸さんの調査に重なるかどうかは分かりませんが、「和をもって尊しとなす」ではあるけれど、その原則と両輪をなす関係にあるのが、礼節 -
- 「親しき中にも礼儀あり」の礼節であり、
- 「三歩下がって師の影を踏まず」の礼節、あるいは
- 「出る釘は打たれる」
の礼節です。
和を大切するのと同時に、あるいはそれ以前に礼節を保っていなくてはならないのです。
だから、オープンでフランク - 言い換えれば「あるがまま」、別の言葉で言えば「(考えることを知らない・子どものような)無邪気さ」- ではいられないのです。
今でこそ、オフィスでも言わなくなっているように思いますが、「お仕事の手を止めさせて申し訳ありません」、そう言ってまず、自分のために時間を割いてもらえるだろうかと、お伺いをたてるのがあたりまえだったのです。
同僚に向かって「お手を止めさせて…」とは言わないでしょうね。
ただ、「ちょっと邪魔して悪いけど…」と “一拍置く” いう気配りが礼節として求められていたものでした。今はどうでしょうね!?^^;
(「そんな悠長な挨拶はしていられないくらい忙しい…」 ということもあるでしょうし、「そういう儀礼的な作法が人との距離を遠ざける.. 」という、今風でない違和感を与えるのだろうと思います)
ぼくらの基準を少し確認してみる
その感覚は、自分が口を開いて物申していいかどうかを確認する感覚 - 時代劇でよく聞く「畏れながら(おそれながら)」の感覚につながります。
人様?! (特にそれが目上の人であれば尚更)に向かって自分の意見を言うというのは、慎むべきこと。「慎むべきこと」というのは、「やってはいけない!」という強い禁止命令に類するものでした。
そしてもし、あえてその禁を犯すのであれば、自分の立場・相手との関係をよくよくわきまえた上で、自ら責任を取ることを覚悟して発言しなさい! という感覚があったのですね。
何だかすごく時代錯誤な話しをしているように聞こえますが、今でも私たち日本人はこの基準を持っていると思いませんか?
山岸さんの調査や統計を待つまでもなく、「波風を立てるのを避けようとする」どころか、どんなものも波風は立てるべきではない! という強いブレーキがかかっている - 日本人の胸の深いところ? にそんな日本人が息づいている気がしてなりません。
今は、礼節を意識させる・そういう気をつかわせること自体が思いやりにかけることと捉えるのかも知れません。だからこそ、『「びくびく」生きるのはもうやめよう』という表現になるようにも思います。
日本人だからこその長所を活かすにはどうすればいいでしょう?
礼節を重んじる、忘れていた意識を呼び起こして、少し古いタイプの?! 日本人に徹することができたら… 意外と私たち自身をしっかり支えることができそうな気がするのですが、それって私だけでしょうか?^^