心のままを言葉にする - その勇気と優しさ
自分の気持ちがわからないとか、自分の気持ちを大切にしたいという言葉がありますが、自分が感じていることや考えていることをうまく捕まえようとすることは、思ったよりむずかしいように思いませんか?
ただ、ちょっと考えてみませんか?
なぜ自分の気持ちが大切なんだろう..? と。
そして、どれくらい自分に正直に自分の気持ちに向き合っているだろうか?
何か変にかっこつけたり、照れ隠ししたりしていないだろうか…? と。
すると日野原さんの言葉が胸の奥まですっと通るようになると思うのです。
日野原さんの言葉は
きみが生まれたときに、きみのまわりにいた人たちがどんなにしあわせにつつまれたかを、きみは想像したことがありますか。
小さなきみが笑うたびに、きっときみのそばにいただれもが思わずにっこりとほほえみを返したことでしょう。きみがからだいっぱいで泣いていれば、そばにいた、たぶんお母さんは、どんなに用事でいそがいくとも、その手をとめて、きみのもとにかけより、きみをあやしたり、きみがどうしてほしいのかをなんとかわかってあげたいと、いっしょうけんめいになったことでしょう。
出典:日野原 重明氏 著・「十歳のきみへ―九十五歳のわたしから」
こんなふうに、自分の気持ちをそのまま言葉にして伝えること、できていますか?
親の、子どもに対する思いを伝えられるのは、親である自分以外にいるはずもないと分かっているけれど、それが意外とむずかしいと感じてもいませんか?
伝えたい想い。伝えないままの想い。
親になってみて感じるのは -
そのとき子どもに感じている思いはちゃんと伝えなくてはいけないな… ちゃんと伝えたいなということ。そして、そう感じることは日常の生活の中で何度も繰り返しあるということ。
けれどそれと同時に、
その思いはそのまま言葉にすることがむずかしい…
そして、親の方が、むずかしいと感じて自分の思いを伝えられないでいるうちに、伝えたい思いも少しずつ形が変わってしまい、伝えないままだった思いはそのままその場所に残ってしまうということ。
そんなふうに、たくさんのことを感じていませんか?
親子の関係の時間がたてばたつほど … 子どもは体も心も成長します。当然のことですね。
ところが、子どもが親の言葉の意味を理解できるようになればなるほど、親はその成長をおもんばかって言葉にすることをためらってしまう。けれど、子どもを思う親の気持ちは本来、変わることがありませんから、伝えないままそこに残ってしまう - 私はそんなふうに感じています。
そんな思いを持って日野原さんの言葉にふれると…
命や、時間、生きるということ… そんな、親自身も懸命になって考えたり、感じたりしていることを、子どもの目線で言葉にして伝える - 日野原さんのような感性は、親自身も支える力があるなと思うのです。
子どもだから… と、そのときの想いを飲み込んでしまわず、そのときの子どもに伝えることはできないか - そんなふうに言葉にできたら、と思うです。
自分が子どもだったあのころ、日野原さんのように言葉にして語りかけてくれる人がいたら… と思うようなことってありませんでしたか? 子どもなりに理解できたのじゃないか、と。子どもなりに、伝えてほしかったと思ったことは?
そうなんですね。
伝えるということは、受け止める人がいるからこそ成り立つんだということを、私たちはよく理解しているように思います。ところがその一方で、受け止めてもらえなければ、伝えるということ - コミュニケーション - というのは成り立たないと勝手に持っているようなところも、私たちにはあるように思うのです。
日野原さんの言葉を読んでいて思うのは…
伝えようとしつづけること、伝えたいと願うことがコミュニケーションの真ん中でありたいということ。
なぜなら、話しかけるということ、伝えようと思うこと、伝えたいと願うこと - それはみんな同じことなんだろうと感じるからです。
人の親になってはじめて、人は人になれる… そんな言葉に出会ったこともあります。
子どもを育てる、と言いますが、親も子どもに育ててもらっている - 親にしてもらっている - そんな気がしたことはありませんか?
伝えること、分かり・分かってもらうこと。それは、育て・育てられることと重なっているという気がするのです。
そして…
その真ん中にあるのが伝えたいという願い -
もしそうなら、自分の思いをそのまま言葉にする優しさと勇気がほしいと感じるのです。