季節のながれの中に感じた 自分の語感

ようやくめぐり会えた春の色

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春のイメージ

もう何十年も?^^; 前、20代の頃にゴルフ場でコース管理の仕事をしていたせいでしょうか、特に丘陵地帯にあるコースだったせいもあると思うのですが、新緑のみどり色、そしてそのみどり色の中で輝いて見えた、ある年の白いアメリカハナミズキの花 *の白い色が私の「春」のイメージになっています。

ゴルフ場の仕事を離れ、転職して東京にあるオフィスを職場とするようになってからも、そのイメージはなぜか私の記憶に染みついたように残りつづけていました。
そのせいか、オフィス街の街路樹になっているハナミズキを見ることはあっても、自分の中にある「春」のイメージからハナミズキだけを切り取った景色を見ているような気がしていました。

そんな中で十数年前、仕事の合間に家族と過ごした公園の一角で、自分の中にある「春」のイメージに重なるハナミズキの花の群れに出会ったときは、言葉にできない素敵なものを感じたものでした。

見失ったそのイメージ

ただ残念なことにその翌年、同じ時期にもう一度あの景色に出会うことができるはずと思ってその公園を訪れてみると、遊具やフェンスのレイアウトの見直しなどあったのでしょうか、特にみんなが利用する公園ですし、木々の葉が茂って見通しが悪くなることは木々にとってだけでなく、みんなにとってもあまりいいことではありませんから。

ハナミズキの群れの一部とその群れを見下ろし、囲むように葉を茂らせていた木々は、姿が変わるほどに穂先や枝を切り落とされてしまっていました。花の盛りのはずの時期にその姿にそうした姿というのはいったいどんな手入れをしたものかと落胆したものでした。

何となくは分かっているのです。人が生活するために作った街の中に、里山の風景を求めているのだとするれば、ないものねだりも甚だしいということになるのだろうと思っていますから。

そして、再会

あれから十数年を超える時間が経ちました。
たとえば、人の背丈ほどのサクラの苗木も育つ環境が許せば、数メートルをはるかに超える若木になって、場所によっては陽射しを適度にさえぎり、風を感じさせてくれる木のトンネルを形作るほどに成長する時間です。

それまでの間、同じ公園を今日ほどゆっくり訪れることがなかっただろうかとあらためて考えてしまうほど、驚きを感じながら眺めたハナミズキと周囲の木々の姿に出会いました。幹を太さ、木の高さを見れば、この場所に植えられてさほどの時間は経っていないだろうと思われるハナミズキが、私の「春」イメージを描いていたのです。

 

春の色
再会した春のイメージ

*: 花のように見えますが、ハナミズキの花は正確に言えば
苞(ほう)と呼ばれる蕾を包んでいた葉ですね。

私の「春」のイメージになった景色では、芝生の緑色のグラデーションとそれよりも濃い針葉樹 - その若々しい淡い緑を背景に、20数本のハナミズキが白い花を咲かせていました。

 

すこし話しが飛躍すると思われるでしょうか。
このハナミズキを見たとき、私は自分の語感のことを思っていました。

「春」という一文字に重ねている自分のイメージ - 満開のサクラもとても魅力的で、これが春なんだと感じさせてくれる力のようなものを持っているように思いますが、私には、サクラの薄紅色ではなく若葉のみどりとハナミズキの花の白なのです。

そしてたとえば、「春」になったねということを伝えたいと思うようなときには、そのイメージを伝えようとしているなと思ったのです。
逆に、友人が、自分の街にも「春」が来たよということを伝えてくれたとすると、その友人はどんな景色を見ているのだろう、どんな風景をイメージしながら話してくれているだろうと、想像している自分を感じたのです。

 

その自分に対する感覚が私自身の語感なのだとすると、優雅?^^; と言えば優雅。けれどあまりに前時代的?^^; です。

私が感じている今の、たとえばブログなどインターネットで使われる言葉はもっと直観的です。ひとつの言葉、ひとつの文字のイメージがほとんどブレず、みんなが共有していて、同じイメージを伝えるために使われています。

そんなことはあたりまえのはずなのですが、たとえば私が普段使っている「急須(きゅうす)」を「きゅうす」ではない言葉で呼ぶ地方があったりしますね。そういう例は挙げればきりがないほどあるのですが、「春(はる)」はたまたま同じ字、(イントネーションの違いはあっても)同じ言葉を使っているというだけという感覚が私にはあるように思うのです。

たとえば東北地方の南部と呼ばれる地域で「きゅうす」はどんな姿をしていて、何と呼ばれているでしょう? 京都の「きびしょ」はどんなものでしょう? - そんな感覚です。

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だから、伝え、受け止めるのに時間がかかる -  そういう意味で前時代的というわけです。

 

インターネットの世界が身近になるほど、情報の量とスピードが高まっている - 私が感じているその感覚は、私自身のスピード - 語感 -を基準にしているためになおさら強くなっているのかも知れません。

はたして私は、インターネットで通じる言葉を使えるようになるでしょうか?^^;

 

 

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