ヨーロッパ式と日本式がある仕事の進め方

日本人は何を考えて仕事をしているのかな?

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私の仕事仲間は普段はメール越しにドイツ人であり、スイス人であり、イタリアあるいはイギリスといった国に住む人たち*なのですが、その仕事の中で日本人 - つまり自分たち - の国民性を強く感じるようになっています。

MEMO:
*: (時には台湾、ベトナム、中国ということもありますが) その国に住む人というのは、その国に生まれ、その国を母国とする人という意味です。

仕事の中で感じる国民性、それは簡単に言えば、日本人とヨーロッパの人たちの間の「仕事の仕方の違い」と言えばよいでしょうか。「仕事の仕方」というのは実はちょっと大げさで、「習慣の違い」という方がしっくりくるかも知れません。

端的に言って、ヨーロッパの人たちの仕事はまず “目標ありき” です。What to do” がはっきりすれば、あとは決められた手順をたどっていけば良い。いわゆる 報連相” が必要かどうかは責任の所在で決まるし、その内容や手順も所定に従えばよく、悩む必要はない - それが彼らの合理性です。ごく自然にしていて彼らはそういう行動をとり、言葉を発してきます。その意味を実際の言葉で説明されたわけではありませんが、それが彼らにとっての自然なんだということがメール越し、電話越しにひしひしと伝わってきます。

better know well your neighborhood
(c) Can Stock Photo / maxxyustas

それに対して私たち日本人の仕事の仕方はと言えば、受け止める時点からして違います。
目標” が示され What to do” が明確にならなければいけない点は違いがないように見えますが、常に for what” (何のために)がセットなっているようなところがあります。

たとえば私が普段相手にしている翻訳。
原文を示して「この英語を日本語にして」というのがヨーロッパ調。一方、「A社の製品を紹介するテキストでパンフレットに印刷して使う。その英語を日本語して」というのが日本調。「この英語を日本語にして」の一言では仕事にならないという反応をするのが私たち日本人のように思うのです。

「この英語を日本語にして」という What to do” が明確なのだから、その目標を達成するために必要なこと - つまりは確認が必要だと思われることがあれば聞いて確認してくれれば良い。それがう要請を受けた側の What to do” なのです。

一方の日本式は自分が要請を受けた時、内容を確認し、理解できたこと不明瞭なことを識別するのに時間をかけさせられるということを嫌い、自分が要請する際には想定される不明瞭な点をクリアにしようとするのです。

日本のビジネス、特に生産の現場には「後工程はお客様」という言葉がありますが、工程の上下に関わらず、仕事の効率を自分の側から解決に行こうとするところがあるのです。

ところがこの日本式のセンスは、時と場合によっては、欧米の人たちに Over Quality、頼まないことでどうしてそんなに時間をかけるのかというカルチャーショックを与えることがあります。

良く言えばきめの細かい感覚ということになるのかも知れませんが、Yes or No に近い彼らの感覚に受け入れてもらいながら、日本式の満足を得るにはやはり工夫が必要なのでしょう。

インターネット経由の電話会議をしようとしただけでも同じことが起こります。
「×日の××時頃、××の件で電話会議方式で話しをしたい」というのがヨーロッパ調。「××の件と言っても技術面か経済面によってメンバーも準備もかかる時間も違ってくる。もう少し詳細な情報を知らせてほしい」というのが日本調。翻訳のときと同じパターンです。

まったく逆の言い方をすれば、日本人のきめの細かい、気配りを含んだ仕事の仕方は失敗を許さない厳しさと背中合わせです。その厳しさが、常に “万難を排して” という緊張感を求めるのが日本調の仕事の仕方にあるように思います。

どちらがいいとか悪いという比較論ではありません。一長一短ですから。
私が感じているのは、私たち日本人はもう少し日本人らしさを知るべきではないのだろうかということ。それこそ一長一短ですから、自分の良さも悪さももっと知ることができるのではないだろうかと思うのです。

私たち日本人の仕事より、彼らヨーロッパの人たちの仕事の方が機動力が高いと言えるのではないか。スタートが早く、その分ゴールに早くたどり着く、そんな利点があるのではないかという余裕がほしいのです。

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もちろん、機動力の高さと高品質が一致しないこともあり得るのです。少なくとも日本人の品質眼にはそう感じることが多いのも事実です。そうです、日本人の品質眼が言う高品質と彼らヨーロッパの人たちが求める高品質の質が違うのです。

たとえて言うなら、数千万円するイタリアのブランドカーと日本の自動車メーカーが作る量産車のどちらの品質が高いかという比較に似ているかも知れません。部品ひとつひとつの高価さと、燃費性能の高さを直接比べてどちらが上かというようなものです。それは比べ方が間違っています。

それでなくとも私たち日本人は回転数の高い高速型のエンジンのような仕事をします。その成果と品質を伝えるべきところで、伝えるべき方法で伝える - そのことをもっと覚えるべきではないかと感じているのです。

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