身辺整理をしながら思うこと
そういうお年頃? ということなのか、自分の暮らしとか仕事を見直したいという思いが生まれてくるのが自分でも不思議です。
いくつになったらこんなことを考えた方がいいよとか、誰に教わったり言われたりしたわけでもないのに、なぜなのでしょうね^^; ちょっと振り返ってみると、結婚したり子どもが生まれたり、仕事を覚えては世界が広がったと感じたり - そういう現役真っただ中というのはひとつの幸せの形なのだなと感じます。
どちらかと言うと石橋を叩いて渡るタイプと言われていた私もそうした社会人としての暮らしをはじめる頃には、「考えるよりもまず行動」というような、考え方を切り替えなくてはいけないという感覚でいたことを覚えています。
どう暮らせばよいか、何をするべきか - そんな実践的な感覚ばかりが前に立っていたのです。
今の暮らしでよいのか、ほかに道はあるのか - そんな足元を見直すような感覚は、この仕事に賭けると決めた時からなくなっていたのです。それなのに、自分の暮らしとか仕事を見直そうとする思いが生まれてきたということは、その頃にはじめた暮らしが目標というか、思っていた形に近づいてきているということなのですね。
これからはもっと自分のための暮らしでいい
ただ、身辺整理という言葉を意識するような年になってからの自分の見直しで分かるのは、私たちの暮らしはあまりに忙し過ぎたなということです。
自分で選んだ生活をはじめる、そこで目指した - イメージしていた - のは、
- 職場の中で自分の力を十分に発揮できるスタンスを確保できるようになろう
- より確かな、安定したサラリーを取れるようになろう
- 親元をはなれた生活を充実させよう
そんな大雑把なものだったような気がします。ただ、前へ進むだけのイメージばかりなのです。

もちろん、週末をどうすごすかとか、ボーナスを活かした夏休みを過ごすための計画をどうしようとかいうONとOFFのイメージはありました。けれど、基本的にはその時の暮らしに疑問はなかった - その結果、ゆとりのある暮らしをと言いながらも私たちの父親たちとは違った意味での「仕事中心」の暮らしだったと思います。
見直すというとき私にあるのは “一旦停止” のイメージです。目標を定めた暮らしにはその “一旦停止” がないのです。その意味で忙し過ぎたのです。
“一旦停止”の見直しをうまくできずに来たなというのが私のイメージですが、なぜそんなイメージを持っているのか。それは経済的な感覚・金銭感覚が、あまりに忙し過ぎた頃と同じ、大雑把なだいたいこっち! というような雰囲気だけだなということが分かってきたからです。
仏教は、お金持ちになることは否定していません。
ただし、お金は、欲の中でも再現のないモノの典型例です。
たとえば、いったん稼ぎ出すと、”それ以下” になれなくなる。
年収300万円の人にとって年収500万円はうらやましい金額だけど、年収800万円の人から見たら「300万円も下がっちゃう!」ということになります。それから、なぜかお金は、未来と直結させて不安がる人が多い。
「年金がどうなるか分からないから今のうちに貯金しておかないと!」とせっせと貯める。
でも、貯めている人に限って、いくら貯めても安心できずに不安でいっぱいなことが多いのです。出典:泰丘 良玄氏著・「人生はブレていい。 – 平成の一休さんのポジティブ・トンチのすすめ –」
ネガティブな雰囲気に巻き込まれたままでいいのか
確かに、不安の材料ばかりがこう多くては “一旦停止” どころではない! という心理になっても仕方がないのかも知れません。ただそうだとすれば尚更、”一旦停止” が必要です。数1000万円なければ老後は過ごせない!? という情報を素直に? 信じてその情報に不安を煽られてしまっているのですから。
自分の予算や年金で暮らすにはこんな工夫をすればよい、もしこんなふうに暮らしたければこんな働き方がある - そういうポジティブなパワーは “忙し過ぎた” 頃のままの私たちでいたのではだめなのです。
頼りと思っているテレビや新聞がそもそもネガティブな情報のるつぼになっています。そのネガティブな情報に自分の暮らしを変えてくれる力はない! というくらいに捉え、先へ進む力を出してきたのが “忙し過ぎた” 頃の私たちだったのですから。
本当に数1000万円で買う暮らしを望んでいたのだろうか、そう切り返す力を見つけなければ、そう思うのです。