伝えるということに対する私の信条
伝えたいという思いは、受け止めようと思う思いに出会えなければ、その思いを実現することができない。
どうすれば伝えることができるだろうと願うときには、自分の中にある、受け止めたいと感じる気持ちに聞けばよい。
普段、そんなふうに思っている私には、伝えるということを大切にしようというような感覚があって、自分が知っている言葉で話したり、書かれたりしたことがあっても、この人はどんな思い、イメージを伝えようとしているのだろうかと考えるような傾向があるように思います。
それは自分で本を読んだり、作文を書いたりするようになってから変わることはなかったような気がします。
だから翻訳を仕事にしているのかも知れないなとも思うことがあるのですが、
最近、自分がどのように原文を読み、その内容をどのように訳文にしているのか、自分自身が分かるようなことがありました。
自分というものに気づいたきっかけ
それは -
ドイツ語で書かれた文章があって、それを翻訳した英語の文章があって、
私たちが書いた翻訳はドイツ語からの日本語、
その日本語を利用しようとする人が判断のもとにしようとするのは英語。
そして、
ドイツ語から翻訳した英語の文章と
ドイツ語から翻訳した日本語の文章、
その英語と日本を比べようとして同じじゃない! どういう日本語が正しい翻訳なのだろう!? という話しになったのです。
英語の文章は英語の文章として、部分部分に必要な書き換えが行われていたのですから同じになるわけはないのですが、その判断に必要な説明をしてあげなくてはということになり、ドイツ語からと英語からの翻訳をし直しました。
そして、独和の日本語と英和の日本語、それぞれがどうしてそういう言葉、文章になるのか、原文はどういうイメージを伝えようとしているものかを伝えようと考え、解説を加えました。
伝えようとしたことを解説して気づいたこと
その解説をしながら -
私は頭の中で(ドイツ語、英語に限らず)読んだ文章をビジュアルに置き換え、そのビジュアルを日本語に置き換えているのだということに気づいたのです。
その時私が伝えようとした解説は言葉より、絵に描く方が早いと思うものだったのです。しかも、2D の静止画でなく、3Dの動画にしたい情景でした。
そのことに気づいたとき、自分の中で描いているものがドイツ語と日本語、あるいは英語と日本語をつないでいると思ったのです。
より良い翻訳のためには “想像力を働かせなさい” ということが昔から言われています。言ってみれば、何を今さら! というくらい翻訳にとっては常識的なことなのです。
私の中の “ビジュアルへの置き換え” という作業はこの想像力を働かせるということにつながっているのだなという実感が持てたわけですが、私もようやくその当たり前のことができるようになったのかも知れません。
そして、伝える・受け止めるということに対して持っている私自身の感覚 - 「どうすれば伝えることができるだろうと願うときには、自分の中にある、受け止めたいと感じる気持ちに聞けばよい」 - も、この想像力のことを言っていたのだなと感じます。
同じように -
ずいぶん昔に参加した会社のプロジェクトのことを思い出していました。ISO9001(品質ISO)という規格に沿って品質管理のためのマネージメントシステムを作るというプロジェクトです。
これも翻訳と同じだったのだなと思ったのです。
規格のISO9001がドイツ語、会社が必要とする品質マニュアルが日本語に重なって、当時も私はビジュアル化をやっていたということを思い出しました。
規格のISO9001を文字通りチャートに描き起こし(ビジュアル化し)、そのチャートに会社の仕事を当てはめて、どんなマニュアルになればいいかを仲間に説明して回ったのです。
ビジュアル(目に見えるもの)に置き換えることがむずかしい理論や抽象的な説明文でさえ、目に見えるものにしようとする -
どうも私は物事を理解することがあまり得意ではない、かなり不器用な人間らしいということも分かってしまったと言えそうな気がしますが^^; このビジュアル化が、私にとっては一番基本的で、それ以外はできないというくらい、伝える・受け止めるというときの自然なアプローチらしいのです。
さて、このワン・パターンでどこまで勝負(?)できるものでしょうか??^^;
それが本当の私に一番近いのだとしたら、どこまでもそのままでいていいのだと信じたい、そんな気がしています。