死期の近い人を送るためのラスト ドライブ
2017年7月に再放送された番組の中、家で死ぬことを望んでいる末期患者を診ているドクターがこんな言葉で話しかけていました。
「願い事は、死の直前まで放ったらかしにせず、元気なうちに叶えておけばいいんです」
ドクターの言葉は、患者本人とそばにいる家族、それを支えている人たちみんなを一緒に抱きしめている言葉だと感じます。
「元気なうちに叶えてておけば…」というのは患者本人には酷な言葉に響くかも知れません。患者本人にとっては「自分ができていたようにはもうできなくなった」ということが悲しいはずですから。「自分ではできない」「助けてもらわなければできないのだ」それが病気になった自分を思い知ることになるのが辛いということもあるはずですから。
そんな自分の願いを叶えようとすれば、家族はできなくなった自分を見て悲しみ、自分を支えようと苦しむことになるのだろうから - 「願う」ことは新しい悲しみや辛さを生むことになる… それが怖いと感じているはずですから。
それでも、悲しみや辛さだけではない - 番組の中のドクターはそう語りかけているように思うのです。
患者本人の願いを叶えようとすることが付き添う家族の歓びにもなるよと言っているように感じるのです。
分かち合いたいと思ったこと - その思い出
母のがん闘病の終わりに終末ケアを支援してくれる施設に母を預けた私は、「患者は患者である前に一人の家族なんだ」と強く思ったものでした。そしてそれと同時に「分かち合ってやることのできないものの前に母はいる」と感じていました。
私の胸の一番奥底にあって、言葉にすることがむずかしいもの、言葉にすることをためらうもの、けれど言葉にしなければ決して伝えることができないもの、そして、言葉にすること・感じることで、付き添う家族は患者と同じものを見つめることができると思えるもの -
そんな思いがあったことを、この番組の中のドクターの言葉が蘇らせてくれました。
いつとは分からない “最期” という時間
私の母はホスピスで最期を迎えました。末期がん患者を入院患者として受け入れるのではなく、施設の部屋を貸してくれるという賃貸契約の形を取って、介護と看護のスタッフと医師が一体となって緩和ケアと普段の生活を支援してくれる施設でした。
24時間体制を取るその施設は、面会のための時間帯も決めず、それが深夜であっても来訪した家族であることを確認して扉を開けてくれるところでした。
その施設と “賃貸契約” を取り母を預かってもらう時、施設長で主治医となってくれた先生が言った言葉が、番組の中のドクターの言葉に重なるものだったと感じています。その先生はこう語りかけてくれました。
「終末ケアを施すという意味ではできること・できないことがあります。けれど、患者さんのためにやってあげられることに限界はないのです。残りの時間は私たちにも正確には分かりません。ですが、だからこそ、患者さんの希望をかなえるための時間を過ごしてもらえるようにしましょう」
母が帰りたがった実家へ戻ることも、ドライブにでかけることも、病状が進む速度にかなわずにかなえてやることはできませんでした。けれど、番組の中のドクターが語った「願い事は、死の直前まで放ったらかしにせず…」という言葉の意味、「患者さんの希望をかなえるための時間」という施設長の言葉の意味だけは分かるようになった - そんな気がしています。
それは Quality Of Life (QOL) という言葉の意味と言ってもいいかも知れません。
日本で実現できるだろうか - Der Wünschewagen
終末ケアの現実の一部を垣間見た自分の経験を重ね合わせるのと同時に、ドイツ エッセンの人たちの取り組みと同じようなことが日本でもできないだろうかと感じました。そう感じるのは私だけではないようにも思います。
ただ、そう感じるのと同時に、仕組みや手順・システムをまねようと考える私たち日本人の不器用さのようなものを思ってちょっと無理なのかなとも感じました。
礼節を尽くすことで成り立つ私たち日本人の社会は、個人同士が触れ合わず、適度な距離を保って離れていることを重視する社会ではないかなと感じます。
端的に言えば、見知らぬ人同士でも “Guten Tag!”(こんにちは)のあいさつを交わせるドイツの社会と、見知らぬ者同士は言葉をかけ合わない、言葉を交わさないことで相手を尊重する? という日本の社会では、共有するということの意味がまるで違うだろうと思うのです。
Der Wünschewagen のような取り組みが素晴らしいと思ったとすると、私たち日本人にはその取り組みをシステムとかユニットのような感覚で自分たちの社会に取り込もうとするではないだろうかと感じます。
けれど、自分たちもシステムとして実現したいからボランティアで参加する人、無料で支えてくれるスポンサーがいないかと考えたとすると、順序を間違っていることになります。Der Wünschewagen は取り組んでいる人たちの善意によって支えられているとすれば、私たちはそうした善意で参加できるだろうか、死生観を分かち合えるだろうか… と発想しなくてはいけないだろうと感じるのです。
その捉え方は言ってみれば、システムから人へのトップダウンではなくて、人からシステムへのボトムアップのアプローチです。
BS1スペシャル「ラスト ドライブ」はごく限られた地域の限られた人たちが実現していることの例に過ぎないのだろうかと考えると、少し気が重くもなってしまいます。
素人の頭で考えても、願いを叶えたいと思う人たちがどれほどたくさんいるだろうかという最初の一歩から途方に暮れそうだと感じますから。
けれど、何かの力・形を実現できたらいいのに… その思いを無くすことができそうもないと感じる番組でした。