大人になり、親になり、覚えてきた「分かり合う」ということ

「あの頃の若い者」はどんなふうに年を取っている?

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いつだってみんなが自分探しをしている

今はもう死語になったでしょうか? 自分がそれだけ年齢を重ねて立場が変わったために聞こえなくなったのでしょうか?

あの頃の自分と同じ年頃の人たちも、「近頃の若い者は」というダメ出しの言葉に悩まされているのだろうかと思うことがあります。それは、逆の言い方をすれば、今の自分たちは、あの頃の自分と同じ年頃の人たちと対面した時、どんなふうに話を聞き、どんな話ができているのだろう、自分自身への?(クエスチョン)ということになるでしょうか。

“あの頃” は自分が20代前半から30歳になるかならないかの10年弱。

「経験が足りない分、年長者の言うことを素直に聞いていれば学ぶべきことを学べるのに、なぜかそれができない若者が多すぎる」という、それこそ人生の先輩が言った言葉に、
「年を取っていることが経験豊か、思慮が深いということだとすればそんな話しも成り立つだろうが、経験の意味も分からずに年だけ取っている人物にはどう対応すればいいのだろう」という
とんでもないけんか腰のことを言ったときのことを自分で忘れることができません。今でも冷汗が出ます^^;

その記憶があるから、今の自分を確かめたくなっているのかも知れません。どうしてそんなにしっかり記憶に残っているのかはよく分からないのですが、その言葉の切り出しが「近頃の若い者は」でした。

本当にあの頃は、老いも若きも「べき論」にこだわっていたように思うのです。どうしてなのでしょう?

step by step makes stable procedure
(c) Can Stock Photo

「あの頃の若さ」を忘れずにいられるかどうか

互いの違いを知るためには

ひとつ私が感じるのは、私の父親と私自身のような、あるいは、昭和vs.平成のような生い立ちや経験や価値観の違いがぶつかり合っていたのが “あの頃” だったかなということ。

そして今思うのは、”その頃” の当事者にはコンフリクト(衝突)の原因も、ボタンの掛け違いが起こっていることも分かっていなかったのではないだろうかということです。そういう掛け違いのイメージが重なる言葉ですから「近頃の若い者は」という言葉は、私などにとってはかなり切ない言葉でもあります。

理解し合えない反発心がエネルギーになった? という見方もできるのかも知れませんが、同じぶつかり合うのならば、そこに何かが生まれてほしいと思ったりするのです。

もちろん、”その頃の若い者” だった私などは、自分のことしか考えていなかったなぁと思います。
「今は分からないかも知れないけれど、同じ苦労をさせたくないと思うから言うんだ」と諭されても
「苦労かどうかを決めてもらう必要はありません。アドバイスとしてありがたいと思ったとしても、それを選ぶのも経験し積み上げるのも自分で決めます」と、これまた冷や汗ものの切り替えしをしていたのを思い出します。

若さがいいとか悪いという話しではありません。
それほど肩ひじを張り、緊張している必要はなかったはずだなとは思いますが、いい意味でも、厳しい意味でも、それが若さというものなのだろうと思うのです。

少なくとも、自分がそうだったのだから、そういう若さは受け入れられる大人になりたいと思うのです。

 

分かり合う、受け入れるということの意味

“受け入れる”、 “分かり合う” という言葉にも、私にはひとつ思い出があります。

家族、親、子ども、自分、仕事や生活 - そんな色々を含めた話しをした晩年の母としたときのことです。テーマは「相続」でした。

  • 子どもとしての父、母に対する思い
  • 親としての子どもに対する思い
  • 兄妹に対する思い
  • 実家(家や土地)に対する思い
  • 宗教や墓所に対する思い
  • 自分の仕事に対する思い

そんなたくさんのことを少しずつ、時間をかけ、日にちをかけて話しをしたのです。母も私もそれぞれが。
がんを病んでいたということがあってか、母の言葉はお互い、以前健康だったときに同じ話しをしたときより実感がこもっているように感じました。

ただ、お互い、ひとつひとつの思いは同じだったり、よく似ていたりするのに、実家相続をどうしたいか・どうするかというところで選択が違う - そんなふうに話しは進んだのです。
そして母がその話しの最後に言った言葉が印象的でした。「やっぱり分かり合えないんだね」 - そう言ったのです。

いくつもの思いを話して、その違いを含めて分かり合った - 私はそう感じていたのです。
“理解し合う”、”分かり合う”、”受け入れる” - どんな言葉を使ってもいいのです。違いを含めて伝え・受け止め合う、それが私の “分かり合う” であり、”受け入れる” です。けれど母のはちょっと違いました。どれくらい違っているかが母にも分かった。だからその言葉になったのです。

同じ選択をして同じ気持ちで同じ時間、同じ空間を共有する - 母の “分かり合う” はそんな感じのものだったでしょう。

 

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両親と私の間にあった - 私はそう感じていたのですが - 「近頃の若い者」 をめぐるゼネレーションギャップは、私が大人になることで少し近づくことができた。

けれど、相手と自分の違いをそのまま受け入れられるかというところで、そのゼネレーションギャップはそれ以上近づくことができなかった - 少なくとも母にとっては - のです。

そう、それが今の私たちが暮らしている「互いの個性を尊重する」ということの実際なのだろうと感じています。

 

 

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