上司であり、部下である - そんな立場から見る組織というもの

自分の立場、相手の立場

スポンサードリンク

自分たちの上司であるはずの人の言葉が分からなくなる… うまく理解できなくなる…
そんなとき、聞き手の部下の方は「分からない」「分からない」にこだわっていないだろうか。

そんなことを感じながら、若い仲間たちを見ています。
その様子が、昔の自分に重なるなぁ と思いながら。

中間管理職の自分たちが部下と対面していたときのことを思い出せば… そして部下たちが自分たちに向かって同じように、「分からない」と訴えていたことを思い出せば、自分がどんな姿勢、どんな心構えで上司と対面すればいいかが分かりそうに思うのですが…

その「人の振り見て…」が簡単にはできないのが、人の常、ということなのでしょうか。

ドラッカー氏の経営者に向けた言葉にこんな言葉があります。

人材を育てる上司の原則

真に厳しい上司、すなわち一流の人間をつくる上司は、部下がよくできるはずのことから考え、次にその部下が本当にそれを行うことを要求する。

… 『経営者の条件』

出典:P.F. ドラッカー 著 / 上田 惇生 氏 編訳・『仕事の哲学

自分は部下にどう対面しているだろう? という立場の人間であればよく理解できるのかも知れませんが、上司であると同時に部下でもあるという、中間管理職には、この言葉を聞く側と語る側の両方の周波数を持つことが欠かせない! と感じます。

いや、「両方の周波数」ということは「板ばさみ」ということ。
そんなことは誰にもできることではない! と感じて、自分の部下たちと同じ振る舞い、同じ言動で上司に対面するのでしょうか?

ここにあげたドラッカー氏の言葉、これをどんなふうに受けとめるだろう? と考えてみることで、自分が「聞けているか」「語れているか」が分かるように思います。

スポンサードリンク

いや、わざわざ、この言葉がなくてもいいのかも知れません。
上司の立場で部下に対するなら -
部下にできるか・理解できるかを考えながら仕事を与えようとしていれば「語れている」上司。
どうすればその仕事が処理できるかと仕事の持って行きどころを探しているとすれば「聞けていない」し「語れていない」上司… そう感じます。

では、部下の立場で上司に対するとしたら -
その仕事をこなすのに自分にはどんな力があればよいかと取り組み、その仕事をこなすことにどんな意味があるかと考えることができているとすれば「聞けている」部下ということになるでしょう。

私たちは実は何らかの形で、この「語る側」と「聞く側」の両方を演じている… そのことに気づいてもらうためにどう働きかければよいか… 少々複雑な話しになりそうです。

スポンサードリンク

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。