患者に望まれること
医療の助けを求めるときも、自分の体とほどこされる医療の関係をしっかりと理解し、納得できる検査、納得できる治療を受けることが大事 - 父や母に付き添ったときの経験で学んだのは、インフォームド・コンセントは(患者に付き添う家族を含めた)患者自身が実現するものだということでした。
普段は、ごくごくあたり前だと思っていることなのですが、Wikipediaにも記述されているような
「正しい情報を得た(伝えられた)上での合意」
出典:Wikipedia・「インフォームドコンセント」
はとても敷居の高いもの。
患者にとっては、医師にエスコートされてはじめて「合意」にたどり着けるというのが実際なのではないだろうかと思うのです。
限られた時間、限られた情報の中で自分で決める
およそ10年前、がんの宣告を受けるよりも前の段階で、診察を受けようとする母に付き添って行った病院の受け付けで目にした「インフォームド・コンセント」の文字。iPhone/スマートフォンの普及で身近になったインターネットでは、たくさんの医療に関係する機関がこの「インフォームド・コンセント」を説明したり宣言するページを持っています。
信頼と納得感を持って医療の支援を受けることができるように - そんなふうに患者が自分の体や病気に対する意識を持つことができるような環境が整いつつあるというのは、望ましいことだなと思います。
ただ、命の行方を意識するようなシチュエーションで患者自身ができる「合意」というのは、ずいぶん限られたものだったなと思うのです。
どう限られていたか。たとえば、
転移が判明し、その病状にどう対応することができるのか、どう対応することが望ましいのか、そんな提言をされたとき - その提言は「診断」という名のインフォームド・コンセントに基づいた方針決定へとつながっていきます。
ところが、患者の心情はその決定をしてからも揺れます。
私が経験してきたインフォームド・コンセント+医療は、その揺れ - 不安や恐怖 - を相手にしてはくれませんでした。
たとえば抗がん剤の投与を受けることを決めても、副作用の確認はあってもそれは投与を継続して大丈夫かどうかを判断するための情報であって、投与を受け続けることに対する不安や恐怖を確認し、それを和らげるためのものではないのです。
そうした不安や恐怖はないか、もし相談したいことが出てきたときには、主治医に直接相談することができないとしても院内にこれこれという担当部署があって、そちらで話しを聞くこともできる。診察を長い時間待つよりも落ち着いて話しをすることができるだろうし、そうした相談があったことは主治医にも伝えられるシステムになっているから…
そんなアドバイスはアドバイスの方からやって来てはくれませんでした。患者の側から訪ねてはじめて説明してもらったということがどれほどたくさんあったことか。それが「インフォームド・コンセントは(患者に付き添う家族を含めた)患者自身が実現するものだ」ということの意味です。