終活 - 振り返る、それは決して残念なことではないのです

家族のために自分でいる、それがどれほど大切なことか

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思い返すとか、振り返る - その言葉が私にはあってはならない! そう思って暮らしていた時期が私にはあったなぁと感じます。

何を考えているのかと言えば、私には今、振り返るという言葉の意味が分かるような気がしているのです。それは… たとえば、

私の母ががんの手術を受けると決めたとき。そして
「その決心は取り消したり、やめたりしていいんだよ。決めたことだからとか、自分の気持ち以外のところで頑張ってしまうと、病気や病状に取り憑かれてはいけない」と、私から母に話したとき。
そのどちらのときも、その先の生活に対する母の意思ははっきりしていたんだなと感じているのです。

手術を受ける! - その決心の反対側には、
「果たしてこの手術で病気を克服することができるのだろうか」
「自分ひとりでは乗り切ることができない闘病という生活。どれほどみんなに迷惑をかけることになるのだろうか」… その他もろもろ、心配事はあとからあとから湧いてきて、自分でもどうしたらいいか分からないほどだったでしょう。

それでも、受けると決心して宣言してからは、「治すために手術を受けるんだ」と思ったでしょうし、「手術を受けた以上、あきらめずに進むしかないんだ」と自分を奮い立たせたことでしょう。

あのときの母の思いは、あのときに分かっておきたかったと思わないでもありません。
ずいぶん心を配っていたつもりだったあのときには、よく考えてみると、母が、「治る」という思いを懸命に見ようとしていたのではないか、迷いや恐怖と懸命に戦っていたのではないか… みたいには思い至らなかったように思うのです。

今日を生きる人のために振り返る

治ることができず、病に命を削られてしまった母を思えば、ああじゃなかったか、こうだったかも知れないと考えても詮無いことだ と言わざるを得ないのかも知れません。けれど、そうやって振り返ることが、母のあとを生き続ける私には必要なことがあるなと思うようになったのです。

何より、余命というものを感じながら過ごしているだろう、義母に向き合うには、振り返ることが必要なのです。

それなりに医師のアドバイスや薬を服用をしながら暮らすこともできなくはないが、人工透析をせずにいれば、余命は2年程度かと思われる - そんなふうに、慢性腎不全の診断を受けても、義母は人工透析をしない暮らしを選びました。

その後、義母がどんな薬を処方され、食生活にどんなアドバイスを受けたのか - 自分の体についてどんなことを訴えているかを聞いていると、母と交わした言葉を思い出すことが少なくありません。
母と過ごした時間の中では分からなかった、気付かなかったことが多いのです。

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自分で思っていたよりはるかにたくさんのことを考え、感じて過ごしていたんだなということもあります。

考えてみれば、この “振り返り” は、振り返ろうと思ってやっていることではありません。
義母との時間を過ごしたあと、その時間を反芻するようにして義母のためになることは… と考える、そのとき自然と母との時間を振り返り、義母との時間に重ねているのです。

学び、あるいは何かを確かめようとしてるのか。自分でもよくは分かりません。
けれど、自分の心の力に自分をあずけておかなくては… と感じているのです。

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