終活 - 投げやりやあきらめではなく、前向きに終わりを考えたいと思うとき

どんなことも自分のためと考えられるなら

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夢を持つとか、目標を目指すとかいうとき、自分の人生が終わることを前提にして話しをするとか、イメージを持つということはあまりないように思うのですが、どうでしょう?

投げやりとか、あきらめとかではなく、より良く、あるいはより落ち着いた心で生きるために命に限りがあるということをはっきり理解しようとする - そういう話しには出会ったことがありませんでした。あるいは、受け止める私自身の感覚が変わってきたということなのでしょうか?

「少年老い易く学成り難し」、「光陰矢のごとし」、あるいは「親孝行したいときには親はなし」など、時間というものをしっかり意識しなくてはいけないよという教えはいくつか耳にし、何らか教えられてきたはず。20歳になり、30歳になり・・・と歳を重ねるごとに何らか思いをもってきたですが、なぜか今のような実感に似たような、つながるような学習にはなっていなかったことを不思議に思うほど、死というものが今の生活の先にあるものという感覚は希薄だったように感じます。

わざわざ意識するようなものではないのかも知れません。意識することがストレスになることさえあるのですから、気をつけなくてはいけません。
けれど、しっかり向き合いたい、その思いから意識し、学びたい、しかもそれができるのは今なのだと感じています。

what is life for you
(c) Can Stock Photo

大切なものがはっきりと分かるようになる経験

しつもん13  「いつかやる」。あなたの「いつか」はいつですか?

(中略)

この世界のただひとつの真実は、「生まれたら死ぬ」ということです。
だから、死が不幸ではない。
生きていることが奇跡なんです。
生きている今日という1日が奇跡なのです。

もし、死がなければ、今日やるべきことはすべて明日にまわされることでしょう。

ひすいこたろう氏 著 『あした死ぬかもよ?』 より

私は父、母を怪我、あるいは病気で亡くしたのですが、二人の最晩年を見てきて、この「生きている今日という1日が奇跡なのです」という言葉を実感す るようになりました。大切なものほどなくしてはじめてその意味が分かるものだというようなことが言われますが、私はその経験から “どんなに大切なものもにも終わり が来る、ずっと持ち続けていることはできないのだ” という実感を持っています。

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私の言葉で言うなら、「なくしてみないと分からないことがあるのだ」ということになるでしょうか。頭で理解していても実感としては分かっていなかったことを体で確認した、と言ってもよいかも知れません。

それはある意味、切ない、悲しいことかも知れません。経験するという訳にはいかず、心の痛みがあってはじめて心に刻まれることがあるというのは。ただ、逆の見方をすれば、この感覚 - 死というものの意味を感じるようになったと思える感覚 - を活かせれば、これからの生活にも、これからの自分の命にもこれまでは分からなったものを見出せるようになるような気がするのです。

死は、生を完全燃焼させるための、最高の「スイッチ」にできるんです。
いつか死ぬ身であることがハートに落ちたとき、人は自分のほんとうの気持ちを取り戻す。

ひすい氏が語るような境地にたどり着くのは容易なことではないとは思いながらも、「より良く生きる」という言葉の意味もこれまでとは違うものを感じるようになっているのですから。

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