迷うときも悩むときも思い出してほしい - 『人生はブレていい』

ほどほどにしようとしていても、芯は自然とできるもの?

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“心の安定を得ることはむずかしくないのだよ” ということをアドバイスしようとしてくれているのでしょうか。”囚われない心で生きることが何よりなのだよ” と教えようとしてくれいるのでしょうか。
読み進めてみると「考えすぎてはだめだよ」という意味合いの一説がありますが、何かと頭を悩ませることの多い私のような人間に語り掛けてくれる、たくさんのヒントが語られています。

テレビ番組ぶっちゃけ寺にも出演されている泰丘寺 副住職の泰丘良玄氏が書かれた著書『人生はブレていい。 – 平成の一休さんのポジティブ・トンチのすすめ –』です。

「ブレていい」と題した章ひとつを読んでみると・・・

その章は

ほどほど(中道)がいい

とはじまります。

普段の私たちは求めることがあたりまえになっている - その求める心というのは、「自分はこうしてあげているのだから認められなくてはおかしい」「報われるはず」という利己的なところに向かっていないだろうか。そんなふうに問いかけてくるようです。

・・・「分かってよ」「認めてよ」、「もっと優しい言い方してよ」と、相手に次々と三段階の要求をしていることになるのですが、言っているこちら側は、まったくそんなつもりはありません。

だって、どちらかと言えば被害者の立場で「あなたが悪い!」って訴えていますから。

互いの人格を尊重し合うのが今の自分たちの時代だと思っているのに、実は相手よりも自分を優先したい利己的な振る舞いしかできていないのだろうかと足元を見せられるような気にもなります。

禅の教えを理解するというような構えた話しではありません。ごく自然と胸に落ちる優しい語り口で、きっとたくさんの気づきがあると思える著書です。

他人を尊重するために、まず自分を尊重することろから - そう聞こえる語りは、自分に迷う者の背中をしっかり支えてくれる暖かさにあふれてます。

you are not alone
(c) Can Stock Photo

ただ、これが禅の本領なのでしょうか。長いこと、ブレてはいけないと教えられ、ブレることを戒められてきた私のような感覚の持ち主には、奔放とも感じるほどに柔軟な内容に戸惑いを覚える部分もあります
そのひとつが、テレビ番組をたとえに挙げて “今に生きることの大切さ” を語っている一説です。

「過去に囚われず、未来に怯えず、今を生きろ」

前に『しくじり先生』(テレビ朝日)で、ホリエモンこと堀江貴文氏が、自身の半生を振り返りながらこう言っているのを見て、「まさに、禅の考えだなあ」と思いました。

(中略)

「なるようにしか、ならない」というのが禅の教えなので、過去に囚われそうになったときは、「今」に集中するようにしています。

この「今」に集中しようという話しがブレていいという話しと重ならない、つながらない - そう感じるのです。

ブレていいというのは、大切なもの、大切と感じる心も流れる時間と同じように一つの場所にとどまらず、形を変えていくものだから、何かに心が囚われてかたくなになってしまったような時こそそのこだわりを捨てることを覚えようという話しのように思うのです。ところが、「過去じゃない、未来じゃない、今、この一瞬に生きよう」というのです。「今、この一瞬に」という言葉に、「ほどほど」とは違うこだわり、動かしがたいものを感じるのです。

この一瞬、一瞬に集中しよう

繊細な人ほど、過去を悔やんだり、過剰に未来を心配することがありますが、どちらにしても、それを「今」、この時点で考えているわけですから、「今」を生きていないことになる。これは、すごくもったいないことだと思うのです。

(中略)

ましてや、やってしまった過去のことに囚われ、自分を責め続ける必要はまったくありません。

なぜ「今」がそれほど大切なのでしょう?

なるようにしかならないということが私たちが受け入れるべき真理などだとすれば、そして、ほどほどがいいのであれば、過去/現在/未来のどこに中心があってもいいのではないかと感じるのです。
いくらか過去に引きずられ、いくらかは未来に期待し、未来を恐れ、いくらかは今を信じる - そんなふうに、そのとき大切だと感じる心の有り様のままに揺れていればいいはずです。

それまでの自分を経験してきたからこそ、「今」を悔いているのだとしたら、「責め続ける必要がまったくない」と決めてもらう必要もないように感じるのです。いずれ流れて過去になることが分かっているのであれば、ひと時の囚われもまたその時、その心だからできること。今ではないと決めてもらうことさえないのです。だから、この慰めの言葉が、相手の心に対する裁断のようにも感じるのです。

世間で今、常識とされていることを、一度、「本当に、そうなのか?」という目で見てほしいのです。

とも語っている言葉と同じ口で語るのであれば、「自分を責め続けることの意味も自ら忘れずに問いかけてほしい」と言ってもらった方が、滑らかに、自然にしみ込んでくるのにと感じるのです。

本当はそれも、この著書が与えてくれる気づきの一つなのだろうと思います。それに気づかせてくれたのがこの著書なのです。

乾いた土に水がしみ込むように、素直に人の言葉に耳を傾け、その言葉を受け入れ、自分に対しても人に対しても裏表のない人にはなれないものだろうか。結果としてそれがブレないことになり、ブレないことが、自分にも人にも落ち着きと安心を与えられるものならば、そんな姿の者になれないものだろうか - そんなふうに、ブレないことを良しとするべきだと育てられきた者にも、この「ブレていい」の語りはちゃんと届くのです。

“落ち着き” や “安心”、あるいは心の平安と言ってもいいでしょうか、そうしたものを命の営みに求めることは誤りなのかも知れません。言葉にはなっていなくても泰丘氏の語りに感じるあるがままの尊さに近づくことはまだできないのかも知れません - そんな気づきです。

あるがままの尊さに近づく - 言葉にするとずいぶん傲慢な響きで、私が伝えたいものとはかけ離れたものになります。だからこそ、

考えることは、素晴らしくない

(中略)

考えに執着しないというのは、人生を流れに任せていると言い換えられます。

という語りが意味を持つのでしょう。

著者の泰丘氏が語るように今しか生きることはできず、だからこそ、ほどほどに(足ることを知って?)いることが望ましいのだとしても、もう少し、ブレない自分を求めて歩いてみようと思わせてくれる、とても素敵な著書でした。

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私が学んだこと:

今しか生きることはできないだから今を大切にしよう。そのためには、自分以外のところにある価値観に囚われて、自分を見失わないようにしたい。
喜びも悲しみも感じるのは自分の心なのだから。自分の心で感じたいから。

そして、喜びも悲しみも心にしまうということを覚えたい。それが、ほどほどということ。決して軽んじているのではなく。
喜びも悲しみも、どれほど大きく、深いものでも、時間は流れその一瞬は過去になる。今しか生きることができないのならば、今この瞬間にやって来るかも知れない喜び、悲しみも大切にしよう。だから(*に)

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