自分より弱い者を守りたい - その思いは間違ってはいないけれど…
曽野綾子さんの「老いの才覚 (ベスト新書)」に綴られている言葉をたとりながら、はっ! と思うことがありました。
「老人であろうと、若者であろうと、原則はあくまで自立すること」という根本は今も変わりません。
年をとるにつれて、なおのこと、その重大さを感じるようになりました。自立とは、ともかく他人に依存しないで生きること。自分の才覚で生きることです。少なくとも生きようと希うことです。
MEMO:
“希う”(こいねがう):強く願い望む。切望する。- 旺文社 国語辞典 第九版
余命の宣告を受けて1年と3か月を経た義母を思う自分の気持ちに はっ! となったのです。
義母は、めったなことでは人を頼るということをしない人。たとえば買い物も、元気なときには1km, 2kmを自分の足で歩いて慣れた道を歩き、自分の知っているマーケットへ行き食材を買って帰るということをごく普通の事として行っている人でした。
自転車で行けば楽だろうにと私たち子どもが思ったり言ったりしても、「自分の体のためにはこの方がいいのだから」と譲らない。
足腰にこたえる辛い仕事だということが分かるから、庭の草ひきなんて私たち子どもに任せて、ああしろ! こうしろ! と指図してくれたらいいのにと提案しても、「大した仕事ではないんだし、できるうちは自分でやった方がいいんだから」と譲らない。
私たち子どもにしてみれば、そのときは庭がきれいになった満足感があるかも知れないけれど、そのあと、体にどんな異変が起こっても不思議はないし、そのほうがかえって大変だろうからと思うのですが…
良かれと思っている自分たちの思いを軸にして義母を見てしまえば、子どもの言うことを聞かない頑固さが問題だ!? なんていうことになってしまいますが、むしろ逆なんです。私の感覚は、高齢者と決めつけて義母の想いを想像できない無神経な優しさの押し付けになりかねない!! ものだったということに気づいたのです。
余命宣告を受けた義母はきっと、いつか自分でやりたいことができなくなる日が来るという怖れを感じているでしょう。もしそうだとすれば、逆から言えば、これまでやっていたことができているということが義母の安心になっているはずなのです。
大変だろうから手伝いますよ… ということは、できないだろうからやらなくていいですよ… と言っているのと同じ?! に聞こえているかも知れないのですね。
私などは、幼い子どもや若い仲間のことを考えるときにもよく似たことを考えている - そのことにも気づいたのです。幼い子どもが歩き方を覚えようとしているとき、転んでけがをしないようにと抱き上げてしまったのでは、子どもは歩き方を覚えることはできません。
転んでも深刻なけがにならないようにと気を配り目を離さないでいる。そして、もし子どもが転んで泣いても、自分で立ち上がれるかと見守る心の強さが必要なんだということを学んでいるはずなのです。
小さい者、弱い者を守る - それは本能的な思いだろうと感じます。けれど、守りかたを間違えることがあるということを知っておかなければいけないと感じています。
自立を可能にするのは、自律の精神
という見出しの一説にこんな言葉もあります。
年をとると、自己過保護型になるか、自己過信型になるか、どちらからに傾きがちになります。別の言い方をすると、自分は労ってもらって当然と思うか、自分はまだやれると思いすぎるかです。
(中略)
つまり壮年、中年時代は、目もよく見え、耳もよく聞こえ、免疫力も高かったかもしれませんが、そうではなくなった今の自分に合う生き方を創出する。それが晩年の知恵だと思うのです。
義母は、「そうではなくなった自分」を認められるようになった部分では、たとえば、買い物をしてきてほしいと言うようになり、代金は品物を受け取るその場で払うようになっています。
そうした振る舞いが義母にとっては、「一つ一つ、できないことを諦め、捨てていく…」- 自分に合った生き方を探している姿なんだと捉えなくてはいけないように思うのです。転ばないようにと抱き上げてしまったり、あとが大変だろうからとやれることを取り上げてしまう - それは自分にできることを間違っていることになる…
目を離さずに見守る - その意味をもう一度確かめなくてはいけないと感じています。