携帯電話は便利なのでしょうか?
みなさんのご両親、あるいは祖父、祖母の方々は携帯電話を使いこなせているでしょうか? いわゆるガラケーでも、iPhone、スマートフォンでも良いのですが、これといったむずかしさを感じることなく普通に使いこなしておられる方もいるかも知れませんね。
私の両親は、パソコンやモバイルフォンに興味を持ち、使えるようになりたいと頑張って覚えるタイプでした。ガラケーで電話をかける、電話を受けるまでは良いものの、メールを受ける、読む、返信をするということになると、インターフェースの見た目と機能が直観的に結びつかず、それは苦労して手順を覚えたものでした。
むずかしいことはありません。
メール受信があると、画面にはメールが届いたという情報といっしょに、メールを読みますか? [はい | いいえ] の選択肢が表示されるのですから、いずれかを選びさえすれば、あとは携帯がメッセージで操作を誘導してくれますから。ところが、たとえば、一旦[いいえ]を選んでメール確認をスキップしたとすると、そのメールを呼び出し、読んでみるという手順がそれはそれはむずかしいようでした。
なぜ両親、特に母親は携帯電話のメールを使いたがったのか - それは何人かいる孫娘たちとのつながりを持っていたかったからだったのです。
メールアプリはむずかしくないのでしょうか?
ずいぶん時間をかけてメールを受ける、読む、返信するという手順をマスターした母でしたが、がんの治療を受けるようになったある日のこと、精神力の維持のためにとスマートフォンに挑戦したいと言い出したことがありました。ガラケーのメール送受信ができたのだから、できると思う、という訳です。そこで、購入したAndroidタブレットにメーラーアプリをインストールし、メールアドレスを設定して渡してやりました。
母の挑戦がはじまったのですが、やはりハードルはかなり高いようでした。メールアプリを立ち上げ、受信メールを確認する、受信メールリストから読みたいメールを選んで読み、返信をしたければ返信のアイコンをタップする - これだってむずかしいことではないと思います。ところが、苦労して書いたメールを誤って閉じてしまって、そのメールを開きなおすとか、メーラーそのものを閉じたいと思ってもメーラーのどこに閉じるボタンがあったのかと同じ迷路に迷い込むのです。メーラーからホームボタンへと意識が切り替えられないのです。
「簡単操作」 は私たちの順応性あってこそ
携帯電話という文明の力、その携帯電話を使いこなし、その携帯電話をツールとし、たとえばSNSという環境に「つながり」という名の文化を構成している - 取り立てて言うことでもないようですが、携帯電話を相手にした母の苦労を思うと、文字どおり「日進月歩」で機能や形が変わっていく携帯電話やパソコンを中心とした世界に、私たちはよくついていけているものだと思います。
普段、何気なく使っている携帯電話 - ガラケーの頃も、iPhone(やスマートフォン)に買い替えた後も、いつの間にかそれなりに使い方に慣れ、それぞれの必要に合わせて使いこなしている。それをちょっと不思議に感じるのは私だけでしょうか?
かつて、ダイヤルでチャンネルを切り替えていたブラウン管タイプのテレビは、プッシュボタンタイプの時代を経て、今のリモコン式液晶画面タイプに変わってきました。それよりもっと前、初めて出会った二層式の洗濯機は同じようにダイヤル式のスイッチ、手で回す絞り機がついていましたが、スイッチパネル式の乾燥機能まで備えたいわゆるオール電化。
さらに、私が知っている一番古いタイプの電話機は、ダイヤル式の重たい黒電話でした。私が知っている一番古いタイプの風呂は、落ち葉や枯れ枝を拾ってきて、浴槽の下で火を焚くものでした。
電話はFAX機能を備え、プッシュボタン方式に、風呂釜は湯沸かし・追い炊き・湯温維持などの機能を持ち、手のひらほどのタッチパネル方式になっていますね。
そうした家電品の進歩や変化についてきた感覚が、iPhoneあるいはスマートフォンという形、使い方の電話になると、使える人と使うのがむずかしい人とに分かれてしまう。それが何だか不思議なのです。
- メールを書き・送りたいと思って
- メール アプリを呼び出すアイコンをタップすると
- [メールボックス] と表示された画面が開きますが
[受信] の文字は見えるものの、[(メール)作成] や [送信] の文字が見えません。
[(メール)作成] [送信] は、文字ではなく、右下の小さなアイコンになっています。
この差が「直観的な操作」の正体で、直感的に操作できない人たちを迷わせるのです。
さらに - [作成・送信]アイコンをタップすると
- [新規メッセージ] の画面が開き [送信] の文字が見えますが、その文字はグレーアウトして
操作できない状態になっています。 - [宛先]、[件名]、[(必要なら)CC/BCC] なしでは送信できないのですから、
その条件を満たすよう、ユーザーを誘導するインターフェイスになっているのですが、
そのことをメールというものの常識から「感知」しなさいというのが
「直観的な操作」の第2の正体です。
少々大げさな言い方ですが、iPhoneあるいはスマートフォンがどれほど高度のユーザーを求めるものか、分かります。高度というほど大げさなものではない・・・、それほど、私たちユーザーの、携帯電話に対する習熟度は複雑で高くなっていると感じるのです。
受話器のない電話機、それが携帯電話
かかってきた電話に応答するには受話器を上げて耳にあてる、電話を切るには受話器を本体にかければよい。ところが、携帯電話には受話器がありません。そのあたりまえのことが母の苦労のもとだったように思います。テレビも洗濯機もごく最近の製品を使いこなしていたのですから。
そしてよく考えてみると、携帯電話ほど機能のバリエーションが多い家電製品はないように思います。機能というより、使いこなすための手順というべきかも知れません。
ひとつのデバイスで
- 通話(声、あるいは映像による通信)
- メール(文字や画像による通信)
- メッセージ(文字による通信)
- ウェブページのブラウジング
- SNS(文字や画像、動画による通信)
- 電子書籍を読む
- 災害情報を得る
- 文字の大きさや画面の明るさといった各種の設定
- etc.
文字どおり推挙に暇がありません。機能や設定のひとつひとつを丸で囲み、線でつなぐチャートを書いてみると、その複雑さに唖然とします。これが「便利さ」の正体だと思うのです。普段、あたりまえと思っていることが、ずいぶんすごいことではないのかと感じるのです。
文字と画像、動画で構成されている通信の文化 - iPhone、スマートフォンという形に進化した携帯電話は、電話機として使うときでさえ、母にはバーチャルなものだったのかも知れません。
もし家族の一員がiPhone、スマートフォンの使い方に苦労しているとしたら、こんなバーチャルの意味を、その人の目線で考えてみてあげてください。