探しているのは こだわりのない柔らかな心の自分

遠回りでもそれが自分の自然であれば

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来る者は拒まず 去る者は追わず - そんな言葉がありますが、私には自分自身はもちろん、何かの変化や衝撃、喜びや楽しさなど自分の外からもたらされるものも、あるがままに受け止められたらいいなという意識があります。

そんな意識をすることさえなしに、変化に驚いた時には慌てればいいし、衝撃が強くて受け止めきれないとしたら取り乱しても仕方がない。嬉しさに有頂天になってそのことをなじられることがあっても、その時は素直に謝るしかない。楽しさにわれを忘れて、大切な人のことを放りっぱなしにするなんて失敗をして、後で落ち込むことになっても気を取り直してやり直す勇気を持てるかも知れない - それが本当のあるがままなのだろうなと思うのです。

常識なんてにゃんセンス
(c) Can Stock Photo

けれど、あるがままを求めているのにしては、妙に長い先のことを心配しているのじゃないのかな? ということを考えたり、行動したりもしている。その最たるものが、終活のように思います。

その時どんなことが必要になるだろう、自分に何ができるだろうと備えようとすることは、あるがままとは正反対の思い、正反対の行動だろうと感じます。

「何があってもいいように」と心を柔らかくしていたいと思っていながら、その実、「何があってもいいように」と緊張し、身構えているのかも知れないのです。ただ、そのことが分かるようになってきたのは、こだわってきた時間があったからなのではないかなと思うのです。

迷うこと、時間がかかることを怖がらないで

あるがままで(何もしない自然なままで)、あるがままの自分でいられるほど器用ではないのですね。トレーニングやシミュレーション - 言い換えれば、自分にとってこれがあるがままということなのだよと教えてやり、こうすることが自分の一番自然な姿だと思うよと自分自身を練ってやってはじめてあるがままでいられるようになる、そんな気がするのです。

とても面倒くさい^^; 優しい言い方をすればあまりに不器用だからなのだろうなと思うのですが、たとえば “準備” と言ったとしても、その準備に憑りつかれてはいけないという意識もあるのです。

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最終的に、これ以上の準備はやりたくてもできないなという結論になったとしても、だから「備えることができなかった」ではなく、できることとできないことを確認したという意味で備えたことにはなると思っている - そんなイメージを持っているのです。分かってもらえるでしょうか?

本当の意味の臨機応変というのは、ですから、目標やこだわり、想いがあってはなかなかできないことなのです。自在の対応を取る、取れるようになるには想いが軽くなくては困るのです。
ですから、 “準備” と言いながら、自分の中にあるそのこだわりや想いを見極めて、できる限りの断捨離をしてやりたい、そんなことを思っているのです。

想いは邪魔になる反面、想いがあるからこそ成し遂げ、到達することができることもある - 今はそう思っているのです。

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