『魂と肉体のゆくえ』 - 見えるもの、信じる心

大人になっても変わらない、子どもの頃の心

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夜空の月を見上げて「どうして月はずっとぼくらについてくるの?」、地面の小さな穴を列を作って出たり入ったり、長い列を作ってアリは何をしているのだろう。そんな疑問を持ったことはありませんでしたか?

七夕の笹飾りをして短冊に願いを書きながら、天の川はどんな川なのだろうと想像をめぐらしたことはありませんでしたか?

ふりかえってみる、あの頃の自分

we are living in the world of life
(c) Can Stock Photo

私が幼少時代を過ごしたのは神奈川県の磯子という場所で、今、京浜東北線の磯子駅のある場所がまだ埋め立て前の海だった頃でした。磯子、そしてその一角の杉田という街は雑木林におおわれた小高い丘が連なって、海向かって落ち込んでいる。その波打ち際と雑木林の丘に挟まれたわずかな土地に人が住んでいる - そんなイメージの街でした。

雑木林の丘の頂を平らに切り開いたところに小学校があって、通学路を挟む田んぼや原っぱが遊び場でした。総木造の校舎のひさしは春にはつばめたちが巣をならべ、トンビやタカもいれば、カエルやヘビ、ドジョウやタニシ、バッタやカマキリ、トンボやカブトムシ、カナブンにクワガタ、フナやメダカ、たんぽぽやシロツメクサ、レンゲソウ、アケビやイチジクなど - もちろん、海にさわれる波打ち際に行けばヒトデもいればフナムシ、フジツボや流れてくる海藻を拾うこともできました。そんな数えきれない自然に囲まれて過ごしていたのです。

自然をとても意識していた記憶があるのですが、いつか「ぼくはどこからきて、どこへ行くのだろう」 - 「誰がその疑問に答えてくれるだろう」、「誰に聞いたらいいのだろう」、そんな自分や命に関わる疑問を持つようにもなりました。自然の中でふれていたたくさんの命をとても意識していたという記憶もあります。

「生まれる」とか「死ぬ」とかという言葉はなくて、羽化する蝶や動かなくなって小川の底に沈んだドジョウ、幼虫から蛹、成虫へと姿を変えるムシを見て、さわって命を覚えたような気がしています。

4歳から5歳、そして7歳、8歳、9歳くらいまでの記憶ですし、自分や命に関わるものだという意識などは少しもなく、オタマジャクシは後ろ足をおなかのどこに隠しているのだろう、アメンボはどうやって水に浮かんでいるのだろうという程度の疑問と少しも変わらないレベルでした。

その世界観、比べることができたなら

そんな私の原点を思い出させてくれるのがこの著書、矢作直樹さんの 『魂と肉体のゆくえ ―与えられた命を生きる』です。なぜ? どうして? とたくさんの疑問を持った子どもの頃の記憶がよみがえって、なんだか気持ちが明るくなるのです。

第一章 「命」を生きるということ
第二章 「死」は終わりではない
第三章 「摂理」を知る
第四章 「魂」と「肉体」の関係
第五章 「輪廻転生」について

この章立ては、私が持った疑問 「ぼくはどこからきて、どこへ行くのだろう」 がその後たどった、あるいはたどり着いた(かなと思える)ものとそのまま重なっています。その矢作さんの思いが矢作さんの言葉で語られています。

私は矢作さんのように聞こえたり、見えたり、感じたりという人間ではありません(と思っていますが、自覚が足りないだけなのでしょうか??^^;)

「死」が終わりなのか始まりなのかにはっきりとした感触を持ってはいません。「摂理」があるという感触は共有できるような気がしていますが、信じているかと言われれば、理解できるものを信じようとする私は信じてはいないと答えるだろうと思います。けれど、”理解できないものが存在する“ということを受け入れることができるように感じている人間でもあります。

霊魂はどこから来るか。たとえば私の霊魂でいえば、すでにいくつかの「前世」を経験して、いま、ここにいるのかもしれません。
「かもしれません」というのは、それはわからないことだからです。たいていの霊魂は、何度かの人生を渡り歩いてきたというふうに私は思うのですが、そうとはかぎらないこともあります。
というのも、霊魂の時間軸が、われわれの世界のように、過去があって、いまがあり、そして、その先があるというわけではないらしいからです。

(中略)

実際に見ることができないもの、あるいは特定の人にしか見えないものについて話をするとき、この世界の科学では理論的に説明することが難しいことがあります。そして、説明するのは難しくても、「分かっていること」「わかること」というのはあるものです。

「ぼくはどこからきたのだろう」  - その幼い頃の疑問の半分に自分なりの答えを出すことができているように思うから、矢作さんの語る内容がしっくりしているのだろうと思います。そして、その半分に自分なりの答えを持っているとすれば、その次にくるのは 「ぼくはどこへ行くのだろう」の疑問。

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矢作さんはこんなふうに語っています。

この人生を、どう受け入れるか?
亡くなるときに、その死をどう受け入れるか?
人の命はどこから来て、どこに還るのかといえば、この世も、あの世も、全部重なって、ここにあるわけです。

私にも、矢作さんが言われる「摂理」のようなものに生かされているという感覚があります。ただ、私が感じている命には還る場所というものがありません。それが、子どもの頃に見てふれて確かめてきた経験と重なっている、そんな感じがしています。どこへ行くのかという疑問は今になってもなくなっていないけれど、分からないという不安や恐れが薄らいできているように思うのです。分からなくていい - だから、還る場所もないのです。

みなさんには幼い頃の記憶や、幼い頃の疑問 - 大人になっても胸に残っているものがありませんか? もしあったら、比べてみませんか? もしかすると、私が感じたように、明るい力を思い出せるように思うのですが^^

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