家族への思いが生まれるところ、たどり着くところ
こんな世界観が持てたらいいなと思うほど、不思議な話です。
もしかすると、普段の私たちはこうした世界には触れないようにして生活しているかも知れないなと感じます。あえて触れることではないと。
ただ、終活やその中で必要になる話しをこんな感覚ですることができたら、気持ちがついていかないむずかしい話も、自然に自分や家族のこととして受け止められるのかも知れないと感じます。
肉体が死んでも、魂は生き続けます。では、その魂はどこに行くのか、懐かしい家であるはずのその場所はどこにあるかといえば、じつは、いまの、この世界と同じ場所にあるようです。
(中略)
その世界は目の前にあるというより、私たちのいる世界と重なっていると言い換えてもいいと思います。
そんなことはあり得ないと思われるでしょうか?
出典:矢作直樹 氏著・「魂と肉体のゆくへ」
荒唐無稽な話しだと感じるでしょうか?
私は、来世とか死後の暮らしというものを感じたり、信じたりする感覚の持ち主ではありませんが、普段の私たちが考えていることは、こうした世界観とまったく別のものではないような気がしています。
日常生活の中にある大切なものを確かめる瞬間
実生活の中、進学や就職(職業)、結婚など、人生の節目と言われるようなタイミングで、友人や兄弟などと相手の思い、自分の思いを聞いたり聞いてもらったりという経験があります。
自分にとってどんなものが大切なのか、何に生きがいを感じているか - そんな自分についての話しです。
みなさんにもそういう経験がありませんか?
時には、選択や決断のために答えを出したいという思いで話すことがあったり、答えが出せなくて頭の中を整理したいと話すこともあったりですが、良く考えてみると不思議なことに、これだ! という結論や答えが出なくても、あとでもう一度考えてみようと、プラス志向の区切りをつけながら前に進めることができていたような気がします。
同じように自分についての話しだけれど、簡単には答えが出せないまま、重いとか暗いという言葉にさえぎられて胸のどこかに置き去りにしてしまい、いつしか忘れているものもありませんか? 人はなぜ生まれてきたのか、何のために生きているのか - その言葉そのものではないにしても、時にその深刻さは違っても、誰もが似た疑問を持ったことがあるのではないかと思うのですが。
なぜか胸に引っかかり、思いだから答えを出せないものかと思うのに、答えを見つけることが簡単なだけでなく、ストレスがかかる疑問。ただ、人の感覚はうまくできているものだと思うのですが、そうしたストレスのかかる疑問は、日常生活の中に上手に埋もれてくれるものなのですね。そうしてストレスも和らいでいた、そんな気がします。
“実生活に近い” というときの実生活と、”ストレスがかかる根源的な(重い)疑問は日常生活の中に埋もれやすい” というというときの日常生活は、どうも同じもののように感じます。
そして、そこで感じる疑問、答えを探してきたことというのは、たとえば結婚のことであっても、自分はどうして生まれてきたのだろうという疑問であっても、実は同じ自分のことを考えてきたのだなと思うのです。
結婚のように、自分が今日やるべきこと、明日にはやりたいと思うことは、二人のため、そして二人の家族のためのことで、ひとつひとつ答えを積み重ねれば大切だと思う自分たちにたどり着くことができる - そんな現実味のある説得力が私たちに力を出させてくれる。そう思うのです。
言い換えれば、「我、如何に生くべきか」という疑問も、観念だけではなく現実と結びつけることができたら違ったものになったかも知れません。
自分で作る拠りどころ
矢作直樹さんがこの著書の中で語られていることは、重いとか暗いという言葉にさえぎられていた疑問に触れようとするのに近いような気がします。答えどころか、理解できるか、信じられるかという話しで終わってしまいそうですから。
信じる信じないは問題ではないと思います。それはそれぞれの感性が決めてくれるはずです。矢作直樹さんが語っているのもそういうことです。
ただ、ここに語られていることを荒唐無稽だと言って終わらせてしまうとしたら、何か大事な現実味をぬけたままにしてしまうのではないかという危うさを感じるのです。それが何なのか分からない - と、振り出しに戻ってしまいそうな気もするのですが、自分や両親の老後や晩年という現実とつないでみると、死や死後の世界に思いを巡らすことで、心構えが柔らかくなってくれるのではないかと感じるのです。