ふと振り返る自分自身
たとえば、家事や料理。これらは毎日やらなければならず、しかもゴールはありません。
仕事のプロジェクトのように一つ終わった! という達成感を感じにくいから、「こんなこといつまで続くんだろう?」と、ときどきむなしい気持ちに襲われることもあると思うのです
でも、単調に思えるかもしれない日々の雑事をきちんとやることこそ、「今を生きる」ことそのものなのです。
「良いことをしたね。すごいね」なんて認められなくても良いのです。
だってそのこと自体が良い行いなのだから。泰丘 良玄著・人生はブレていい より
と聞いてみると、私たちが育つころの価値観は、日常というものをどこかに置き忘れたりしていなかったよな!? と思わず振り返りたくなります。
私たちが育つころの価値観には、礼節や思いやり - 自分より弱い者を守らなくてはいけないとか、親や祖先を大切にしなくてはいけないとか、人との交わりを尊重するたくさんの教えが身近にあったような記憶があります。
そして、そのすぐ隣りにあったのが感謝についての教えです。日々の糧に感謝すること、その糧を与えてくれる親への感謝を忘れないでいること - そうです、自分より相手、自分は生かしてもらっている存在、そんな謙虚さを求める教えが多かったように思うのです。
家事や料理のようになくては困るものを与えてもらえるからこそ “日々の糧に対する感謝の気持ち” だったはずですが、なくては困るものがある安心の中で、家事や料理はあってあたりまえのもののようにニュアンスが変わってしまっていなかっただろうか - だからこの一説を読んだとき、そんな思いがよぎったのです。
言い換えれば、「そのこと自体が良い行い」なのだよとは決して教えられなかったなと思うのです。
人への優しさを教えるその当時の教えは、自分を否定する - 自分よりまず相手 - ところに立っている教えですから、行いが良いとほめることがないのです。
「いただきます」と出された料理に感謝はしても、料理をしてくれたこと - 料理をしてくれた人の行いをほめる・認めるということはないのです。
(ほめられれば)料理をしてくれた人がそのほめられたこと自体を否定する - 謙虚であろうとする - のですから。
あるがままを受け止めることへとつなげよう
行いを行いとしてそのままに受け止めてこなかったのではないか - そう感じてみると、個人を尊重しなくてはと言いながら育ってきた私たち自身が何を求めていたのかがはっきり感じられるような気がするのです。
こうした日常生活では当たり前の行いを修めることは、今に集中して生きることにつながっているのです。
見方を変えるワンフレーズ
結果よりも過程を重視
それすなわち、今を生きること
何よりも結果 - 目標に到達していること、目的を果たせていることが大事でそのための努力はあたりまえのこと。それこそ、認められなければならないものではない - やってあたりまえ。
だから「そのこと自体が良い行い」だということも分からないまま大人になってきたのではないか、そんな気がするのです。
はたして今の私たちは「結果よりも過程を大切にしよう・しなさい」と後輩たち、子どもたちを見守ることができているでしょうか?