柔らかな頭脳に幸せがやってくる

自分を信じて、自分の力を信じて

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人生を好転させるためにポジティブシンキングを自分のものにしようとか、いくつになっても脳は柔軟さを失わないものだから、自分を変えることに消極的にならななくていいのだよというヒントを見つけたのですが、そこに語られている言葉にかすかな戸惑いを感じています。

それはどういうことかというと・・・

世の中のほとんどの人は「もっと神話」にだまされていて、「もっと幸せになるためには、もっと多くを手に入れなければならない」とかたくなに信じているようです。
しかし、それは大間違いです。

(中略)

何かを手に入れたいという欲望は、それが実現しても本当の喜びをもたらしてはくれないばかりか、さらに別の欲望を喚起するだけ。
ではなぜ人々は、この「もっと神話」から逃れられないのでしょうか。
それは、広告業界がそう仕向けているからです。

(中略)

さらに、「もっと神話」とともに信じられているのが「いつか神話」でしょう。

出典: マーシー・シャイモフ氏著・茂木健一郎氏訳

という言葉にある悩ましさを感じたのです。

ここで使われている、「もっと」や「いつか」という言葉が、これまで正しいと思ってきた価値観、人生観のもとになっていた言葉と同じだからなのですね。

「もっと」も「いつか」も今に不足を言わずに受け入れて、自分の足りないところを真摯に認めて努力しなさい - 「もっと」努力しなさい、そして、「いつか」認められるように - と言われ続けた言葉にそのまま重なって聞こえるからです。

もちろん、この一節で語られていることは意味が違うじゃないか! というのはよく分かっているのです。
けれど、いつか届く幸せの日のために - そんなふうに忍耐することがよいことだよと教えられてきた身には、ちょっと複雑な響きの言葉なのです。

今、自分の手にあるものに感謝して、あるいは、今の自分に満足してできる - そんな足るを知るということを完全に忘れてきたとしても、それは無理からぬことだろうと感じる話しが多いように思うのです。

その最たるものが学校の成績でしたね。
何がどれくらいできるだろう。何がどれくらいできたかな? それができた時どんな気持ちだった? それをうまく活かしたら何ができるだろうね - そんなふうに、自分のできるできないをそのまま基準して、自分のことを話してもらった記憶がどのくらいあるでしょう?

よほど時間をかけて思い出そうとしてみても、そういう記憶をたどることってどうもできそうにありません。

何かがとてもうまくできて - そう、私の場合、小学校の家庭科で運針が上手だとほめられたことがあったのを思い出しました。国語の授業で、作文が上手だとほめられてみんなに読んで聞かせてほしいと言われたことも思い出しました - 誇らしい気分を味わったなんてこともあったように思いますが、できること・できたことには基本的に冷めていて、次に何ができるようになるだろう、それができるならこれもできるねと「もっと」頑張ろう、「もっと」できるようになろうという話しが先にあったような気がするのです。

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要するに、「もっと」も「いつか」もあたり前だったのじゃないのかな? そんな気がするのです。

だから、足るを知る以前に、足りてしまってはいけない、もっと先を見なければ - そんなふうに育ち、過ごしてきたような気がしてしまうのです。

本当の幸せは、「もっと」素晴らしいものによって、「いつか」もたらされるというものではありません。脳が幸せを感じられるのは、”今” だけなのです。

という言葉の本当の意味をちゃんと感じられる感性を持っているか、確認しなくてはいけないようですね。

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