アナログとデジタルの狭間で
紙とペンの仕事
私は20年を超える年月、産業翻訳の世界、その一角に身を置いて、翻訳の方法がアナログからデジタルへ移り、デジタルのステージをひとつひとつ変化させる様子を見ては、それぞれのステージで仕事をさせてもらってきました。
翻訳の作業というものがもしステップで分けられるとすると、
- 確認と調査の 事前準備
- 実際の翻訳
- 確認と調整の 仕上げ作業
という3つに大別できるのではないかと思っているのですが、翻訳をひとつの製品ととらえたとき、その製品を作り上げる3つのステップは、目と手、紙とペンが作業の中心になっていたアナログの時代にはいずれもが、大きな時間を要する骨の折れるものだったと感じます。
産業翻訳の世界の一角で私が取り組んでいたのは、製品の使い方や注意事項をユーザーに伝えるための取扱説明書や、その製品を整備する人が使う整備要領書と言われる資料でした。そうしたマニュアルの説明文の良し悪しは、如何に用語や文体の統一性を高く保つかにありました。アナログ中心の時代、そのノウハウはベテラン作業員の頭脳 - 語彙力 - に頼るところが大きく、口伝で伝える職人の仕事のように何年もの時間をかけて完成させるものだったように思います。1冊のマニュアルを完成させようとするとき、その中で使われる製品を構成する部品の名称は3000とも5000とも言われていた分野での翻訳の事前準備は、ひとえにその事前確認にかかっていました。
- どの用語を使い
- どの文体で表すか
の確認を、翻訳しようとするマニュアルの前版をもとに確認するのです。1冊のマニュアルのために、時には原文・訳文両方の言語の版を山積みにして検索し、つき合せ、作業を進めるわけですが、経験を積んだベテランほどそこにかかる時間が短いのは自明の理。そして、その経験が安定したものであればあるほど、第2のステップ、実際の翻訳はそのスピードも質も高くなります。安定した知識と語彙力に支えられて作られた翻訳は、第3のステップで、スペルミスや文法のミスがないかに加え、用語や文体のぶれがないかを確認して仕上げられます。
第1から第3までのステップはいずれも目と手、紙とペンで行うわけですが、マニュアルを作る、つまり後工程に編集が待っているとなれば、3つのステップの作業結果は誰が見ても分かる文字でどう編集すればよいかが分かるよう、編集原稿としてまとめられていなければならない。翻訳は翻訳者、編集は編集者という分担をつなぐ、翻訳・編集者という、少々奇妙な立場が私に与えられた仕事でした。
デジタルへ
産業翻訳の世界は、翻訳者と編集者、そしてその間をつなぐコーディネーターのトライアングルによって作られる - それが、今の私の翻訳感ですが、
- マニュアルの前版というのは、数多くの作業ステップの記録として残っているノウハウの集約
- そこから、用語や文体、その他の約束事を受け継ぐために、事前準備を行い
- さらに用語や文体の統一性を高めた新版を作成する
そんな作業方法を標準として手順化し、繰り返そうとしている時期に市場にあらわれたのが今もパソコンと呼ばれるツールでした。当時MS-DOSと呼ばれたOSを知る人は、ある一定以上の年齢方に限られていると思います。MS-DOSの上に構築した初期のWindowsを知る方も同じでしょう。
紙とペン、そしてパソコンを相手に、産業翻訳のデジタル化のひとつの過渡期を過ごす中で、私はプログラミング言語のCやC++を学び、パソコンの力で自らの語彙力を、さらには原稿作成のスピード力をカバーするようなシステムを作ったことがありました。今、市場には翻訳メモリーツールとかCAT(Computer Aided Translation)ツールと呼ばれるソフトウェアがありますが、そのパーソナル版(社の必要に合わせたカスタマイズ版)を作ったわけです。
こうしたツールがやっているのは翻訳の3つのステップすべてであり、後工程の編集にまで踏み込んだ作業です。かつて作業工程とされていた工程の多くをなくし、マニュアル作成の工期を劇的に短縮しました。かつて8ヶ月、6ヶ月とかかっていた工期は3ヶ月、1ヶ月、数週間にまで縮まったのです。
そしてデジタルの先へ
今や優れた翻訳者(あるいは優れたコーディネーター)は、
- 翻訳
- 編集(翻訳の発行形態)
- CATツールとファイル形式(と関連する知識、たとえば文字コードの別など)
に如何に精通しているかで決まると言われているのではないかと思います。
ただ、そうした流れが翻訳の進化であるとしたならば、進化の過程で、翻訳に求められる質とツールの立場が逆転し、ツールが翻訳の仕方やできあがりを決定するという現象が起きている、そんな一面もあるということに注意が必要だろうと感じています。ヨーロッパの言語にあるAbbreviationを、同じように日本語の3文字、4文字で翻訳するという要求などもその例ではないかと思います。言葉の世界には数学のような普遍的な正解というものが求めにくく、情報(言葉・文字)を発信する側の必要性によって、その質が微妙に異なるという特性があることに注意が必要なように感じています。限界はあるのでしょうが、微妙に変えられるほど、言葉は柔軟なものと言うことかも知れません。
編集にも同じようなことを感じておられる方がいるのではないかと思います。たとえば、パソコンとOSの進化によって、今では日本語文字の印刷をヨーロッパで行うということは日常茶飯事です。「微妙に異なる特性」というのは、その日本語の資料を編集・印刷しているソフトウェアに禁則処理の機能がない、あるいはコーディネーターもオペレーターも日本語の禁則処理というものを知らないという環境で作業するというような形で現れます。私は禁則を礼賛する者ではありませんが、そうするうちに、私たち日本人自身も禁則処理とか行末追い込みなどというかつての日本語の形を意識することがなくなっていくというような側面があるように感じるのです。