仕事離れは突然やってくるわけじゃないだろう!
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仕事が忙し過ぎて自分の時間が持てない⁈ …
そんな状況になればなるほど、あれもやりたいこれもやりたいという思いにかられる。
この「あれもこれも」という感覚は、少なくとも私の場合、ストレスを感じている証拠だろうなと思うようになってきました。
たとえばどんなことがあるでしょう?
いえ、いくらでもありますよね。読みたい本を読んだり、ギターを弾いたり絵を描いたり、はたまたウエイトトレーニングをしてみたり - そう考えると趣味と言ってやっていたことはずいぶんたくさんあったことが分かります。
シングルを目指してゴルフボールを打たない日はない! ということもありましたし… ^^;
今ならこうしてブログを書く時間もでしょう。
“仕事のための生活” はどんなふうに逆転したのか
“仕事のための生活” ってどんなものだったか
そういう「あれこれ」ができないなぁと、「思うようになってきた」というくらいですから、以前はそうは感じていなかった - 仕事でやることがすべてで、それ以外の「あれ」とか「これ」が割り込む場所がなかったのです。ただ今振り返ってみると、これは、仕事を覚える、あるいは社会人になろうとする一時期には必要なこと、必要な時間だったかなとも思うのです。
20代 - 結婚して家族を養うんだ! という責任感に燃えていたころには、家族ための仕事が最優先で家族の満足と自分の仕事の満足が完全に重なっていたような…。
「仕事が忙しいから」という一言ですべてが自分の思うようになる、そんな感覚もあったように思うのです。仕事のためであれば、休日を返上するのも、血縁関係の遠い冠婚葬祭を失礼するのも、あるいはスーツや革靴を買いそろえたり、技術書を読みふけったり、ほとんど自分の思いどおりのことができたのです。
そしていつしか、自分は仕事のための存在でなければならない?! という錯覚を持っていたのかも知れませんね。趣味とか余暇という言葉を忘れて、よくここまできたものだと我ながら感心します。
“仕事のための生活” を変えようと思ったきっかけは?
「仕事が忙しいから」という一言を頼りに、仕事のためのことばかりをやってきた - それが何かのきっかけで、「仕事や職場は私の暮らしを生涯、保証してくれるものじゃない!」と思うようになったのだろうと、今でも思います。
よく考え、思い出してみると、会社と社員の思いがかみ合っていない! そんなことを感じることがあったような気がします。社員の立場からの思いですからずいぶん自分勝手なことを思っていたようにも思います。会社が組織として目指す世代交代のようなものが中心にあったでしょうか? 会社が目指そうとしているものと自分が望んでいる将来像がかみ合わない… そんな感じだったようにも思います。
組織と個人が力を合わせなければ世代交代は実現できるはずもない… そんな思いと
人をまるごと入れ換えればできない世代交代はない!? … そんな話しだったかも知れません。
「仕事が忙しいから」という一言には、「この仕事は自分がやらなくてはいけないんだ」という責任感とも自負とも、思い上がり・思い込みとも言えるようなものがあって、当時の会社との対話の中で、
- 「自分でなくてもできることなのだ」
- 「自分がすべてに責任を取りかねるようであれば、誰かにあとを継いでもらわなくてはならない」
- 「自分が役に立つことがあるとしても、それは会社というチームの一員としてなのだ」
- 「世代交代が必要なら、”(世代交代)される” のではなく “する” ものにしよう」
そんなことを考えたのを覚えています。
理想的な世代交代 - そういうものがあるとすれば
もしかすると、今30代40代 - 仕事や職場のけん引役として頑張っている世代の人たちはもうとっくに、そんな仕事中心の人生観は返上しているのかも知れません。
ところが、私などは、その仕事観・人生観を自覚するのにとんでもなく時間をかけなくてはならない - そのことがちょっと切なくもあります。特に、自分に向かっての自分の限界を示したような気がしていましたから、なおさらです。
「ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」や「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)」に出会ったのは、そんな “切り替え” のあとでした。変われるか、変われないか… ではなく、私たちはすでに変化した世界に生きている - そんな意味合いの話しを現実の職場で語れるようにするにはどうすればいいでしょう?
もしかすると仕事中心の人生観を返上しているかも知れない若い仲間たちと、力を合わせて世代交代を完成させることができるか - しかも、彼らに私たちの轍を踏ませない - 仕事のための生活ではなくて、仕事は生活・生きていく時間の一部に過ぎない、憑りつかれてはいけない、そんな思いが届くだろうかと思いながら、もう少しやってみたいと思うのです。