製品とユーザーの変化
すこし大袈裟な言い方でしょうか?
私はもう長いこと産業翻訳の業界にいますが、産業の世界が変わってきたことを感じる機会が増えてきたように思ってきたなということを感じるようになったのは、取扱説明書というものをパッケージに持たない(ように見える)製品が出回るようになってからでしょうか。
以前、どうしてiPhoneの取扱説明書は紙に印刷された冊子としてパッケージに含まれていないのだろうということを考えました(その時の記事は: 「iPhoneに印刷物になった取扱説明書がないはなぜか」)。
- わざわざ使い方を説明されなくても使いこなせるくらいユーザーの製品知識や直感が高まってきて
- 製品の側も、ユーザーはこんな人たちが、こんなふうに使うだろうというレベルを想定して機能を決める
そして
- 故障などメーカーの助けが必要になった時には、販売店やメーカーの窓口に連絡すればいい(はず)という、暗黙の了解がメーカーとユーザーをつないでいる
しかも
- その信頼関係は取扱説明書に書かれている保証内容の説明ではなくて、SNS - 特に、ユーザーの不利益がSNSに乗って拡散してしまえばどうなるか•••という、抑止力が守っている(という側面がある)
そんな、製品をめぐるメーカーからの新しい提案が “取扱説明書なし” という形になっているのだろうと思うのです。
ただちょっと見方を変えると “多数決の原理” が働いているだけに、製品がユーザーを選んでいるという見方もできなくはないと思うのです。
言い換えれば、デジタル化されiPhoneに組み込まれた取扱説明書は、そこにたどり着けるレベルのユーザーのためのもの、メーカーと自分の関係や連絡の仕方などを想像できるユーザーのためのものという見方もできなくはないのです。つまり、そこで使われる言葉や説明されている内容はある一定のレベルを想定した言葉と内容だとしても不思議はないように思います。
もっと別の言い方をすれば、使ったことのないiPhoneを1から覚えたい、もしそんなユーザーがいても、iPhoneは残念ながらそうしたユーザーが1:1で向き合える製品ではない。少なくともインターネットを使いこなし、検索・確認という日常を過ごしている人でなければ敷居の高い製品だということになるのです。実際には、やさしい分かりやすい内容の説明書があるのですが。
- iPhoneユーザガイド
- iPhoneクイックスタート
せっかく電源の入れ方から説明したこうした説明書があるのに、iPhone初心者、モバイル製品初心者のユーザーをその説明書の場所までエスコートしてはくれないのです。
そして、私が感じているのはそうした変化の次のステージかも知れません。
産業の変化と翻訳の関係
産業翻訳の世界にいて確認できるのは、そうした取扱説明書のテキストを扱う量に対して、製品やメーカーを紹介するテキストの量が圧倒的に増えてきたということ。
つまり、使い方(操作方法、保証事項など全般)を説明する印刷物、あるいはPDFなど印刷物にちかいイメージの物に比べて、ウェブサイトを中心にしたメーカーや製品のアピール、販売促進寄りのテキスト - 情報量が増えているのです。
思い切った言い方をすれば、使い方の手順を説明する時代は終わって、メーカーや製品というイメージを伝え・広める時代になってきていると言えるように思うのです。
翻訳は原文を、たとえば日本語にするだけだから大きな問題はないだろうと思うとさにあらず。
製品を説明する - 取扱説明書の - テキスト(説明文)は製品を使うことでユーザーに不都合を与えることがないように、ユーザーの安全、製品の安全を優先したものですから
- より簡潔に、誤解がないように
という目的をもっていましたから、翻訳も
- 原文を外さない直訳調逐語訳の精度が求められる傾向があったのです
しかし、メーカーや製品というイメージを伝え・広めるテキストは、文章というより “イメージ” とか “情報” というひとつのユニット、あるいはパッケージになっていることを求められるので、
- (日本語にするのであれば)日本語として読みやすく、その “イメージ” や “情報” をしっかり伝えるもの
であることが求められるのです。
あえて言うなら、分かりやすさと正確性の手順説明 vs. イメージを描きやすいクリエイティブなウェブテキスト
そんなふうに言えるかも知れません。
もしかすると、ユーザーはますますインターネット寄りに立てるセンスを求められるような気もします。少なくとも、「その製品がどんなものか」も「製品の使い方」もデジタル化が進むのは確かのように感じますから。