良い製品、良い仕事、良い品質…?! どんなものか説明できるだろうか
「良し悪しの意味とか基準とか、そういうことはよく分からないけれどともかく良いものを」 - というなんだかよく分からない注文? で話しが通じてしまうとしたらちょっと冷や汗ものですが、こういう仕事をしていることありませんか?^^;
同じ製品をとっても、それを手にする人によって求めるものがバリエーション豊かになってきていて、同じ問題を相手にしても、その捉え方も対処の仕方も人によって千差万別。その結果、こんなよく分からない注文が横行するようになったのでしょうか??
たとえば自動車の運転免許証。
自動車を運転しようと思えば(正確に言うと、公道を走行しようとと思えば)、公に発行される運転免許証を取得しなくてはなりません。
これは昔も今も変わらない社会のルールです。
ところがその運転免許証の中身はずいぶん変化してきました。
AT限定という種類の免許に代表されるように、その昔、教習所でも筆記試験でも、カリキュラムや課題は構造と法令に分けられていた時代がありました。
免許を取りたいと思ったら、構造 - つまり、
- エンジンはどんな原理でパワーを発揮するのか
- トランスミッションはどんな構造で速度を制御できるようになっているのか
- クラッチはどんな構造で何をするものなのか
そのほか
- ステアリングとは
- ブレーキとは
- そして始業点検とはなどなど
自動車を走らせ停止させるための知識を求められました。もうはるか昔の話ですが^^;
今は知らない人も増えているように思うのですが、「チョークを使うタイミング」なんていうHow toがあったのです。そして、走らせ停止させることと一緒に、普段の整備や点検、交換、そして”止めることができない!” という非常事態にどうやってクルマを止めればいいかという講義もありました。
ミッションはMT。ハンドブレーキとクラッチペダル、アクセスペダルをうまく使わなくては坂道発信はできない! と決まっていたのです。つまり、その昔の自動車は、人が意識して操作しなければ動かない、そんな面がたくさんありました。
一方、今の自動車はメンテナンスフリー。決められたインターバルで専門家に任せれば、ボンネットを開ける必要がないほどですね。
だから、「良いクルマ」の意味ってその昔とはずいぶん違うのです。
そして、たとえば日本語の文章。
これも同じように、その昔との比較ですが、日本語の文章も書いて終わり、そのまま出版、発行ではなかったのですね。
もちろん今でも変わらない手順で出版・発行されている日本語の文章はあります。新聞や雑誌の記事というのはその例かも知れません。小説のような本となると - 執筆者が書いた原稿を活字にして、原稿通り活字になったかを別の人間がチェックする。校正という工程も進め方によっては、執筆者が書いた原稿に間違いがないかを見ることがあるのです。
その最後の確認は当然のとこながら執筆者自身。どんな意味のことをどんな文字で伝えようとしているのか、それが分かるのは執筆者しかいないというわけ。つまり、何人もの人たちの目と感性、判断でできあがるのが文章 - あるいは文章を並べたページ、冊子、本やポスターその他もろもろなのです。
それに対して、今は、その確認に必要な人の数が少ないほど「良い文章」と評価される発行物もあります。
分かりますか? 「良い」というときの基準が違うのが。何人もの人が関わっていた文章は文章が「良さ」の判断基準、片や、関わる人の数が「良さ」の判断基準です。
自動車の例は、自動車の進化といっしょに「良さ」が変わってきている、そのことをあまり意識しないで「良い悪い」と言っている例。
そして、日本語の文章の例は、比べる基準がすり替わっているのに、そのことを意識できないで「良い悪い」と言っている例です。
どちらがいいとか正しいかという意味の話しではなくて、
私たちの価値観はこんなふうに曖昧になっていることがある、だから、基準というものを少し意識してみると、大切なものが見えやすく事がけっこうありそうだなと思うのです。