両親はどんな夫婦だったのか
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どんなふうにして出会い、どんなふうにして互いを知っていったのか - 両親のなれ初めとか、結婚してから自分が生まれたころの生活だとかを聞いたことがありますか?
私は、生後間もなく生存を危ぶまれる大病にかかり、両親共々、親族・友人などたくさんの人に助けられたという生い立ちをもっていために、その頃の父の仕事や生活、母がどんな役割を果たした生活だったか、私がどんな赤ん坊だったか、どんな治療を受けたのかなど、折に触れては、聞かされたものでした。
そんな中で一度、リウマチで体が不自由になりはじめた頃の父が父の実家がある土地へ出かけたいということがあって、母と二人を車に乗せての運転手を頼まれたことがありました。
その道すがら、結婚前の両親が互いの両親に紹介し合ったころの話しを母から聞いたのです。
特に私から訪ねたわけではありませんでしたが、父の実家や祖父母をよく知っている人たちにも会いに行くということもあって、そんな話しになったのだろうと思います。
祖父が両親に語った結婚という教え
両親は年の離れた夫婦でしたし、夫唱婦随があたり前と言われた時代の人たちでしたから、両親(祖父母)の言うままに結婚というものを捉えていたと母は話していましたが、結婚直前、義理の父(私の祖父)に言われたことは今でも忘れられないと言っていました。
「まがたま二つを合わせると丸いひとつの形ができあがる。結婚というのは、その新しくできあがる丸い形と同じもの。まがたまのどちらが欠けてもその丸さを作ることはできない。
結婚という丸い形を守るために、夫婦は力を合わせていっしょに生きていくのだ…」
祖父は、そんなことを語ったそうです。
祖父は信仰を持っていた人だと言いますから、まがたまをたとえにしたのだろうかと思いますが、祖父が亡くなってから25年を超える時間が経っていた当時も、折に触れて母の結婚観を支えてきた教えだったのだろうなと感じたものでした。
普段の両親はちょっと分かりにくい夫婦だった
どちらかというと私たち日本人は、連れ合いとかパートナーとか呼ぶ人に対する気持ち、感情を伝えたり、表現するということにとても奥ゆかしいところがあって、間違えると「言わなくても分かっているだろ」と言わんばかりの普段になってしまいがちですね。
取り立てて、仲睦まじくしていることが必要だと思っているわけではありません。
それぞれが、一番自然にいられる関係であればいいのです。
また取り立てて、両親が互いに互いの気持ちを伝えあっていたのかを知りたいと思っているわけではありません。夫婦にはそれこそ、それぞれの形があるのですから。
私が今感じているのは、
どこかで別の、本当の気持ちを伝えているのだろうかと思わせるほど、私たち子どもの前ではいがみ合うことの方が多くて、どんなふうに大切に思い合っているのかなどこれっぽっちも表現することがなくても、私の両親は夫婦だったのだなということです。
死後も母を支えていた父の存在
母の最後の2年間はがんとの闘病の時間でしたが、そもそも母は、「自分は決して病院の世話にはなりたくない、薬で支える命ならそこ死んでもいいんだ!」と言っていた人だったのです。
そして、その母にがんとの闘病に踏み込む決断をさせたのは当時、母にとっての生前の父の気持ちでした。
年上だった父は病院で最期を迎えたのですが、入院前に書いた母に宛てた手紙に - その手紙を書いた時点で、父は母のがんを知らされていたのです - 「せめて自分の年齢までは生きてほしい」ということを書いていました。
私はと言えば長い時間をかけた話し合い - その中には親子喧嘩もありましたが - のあと、治療はしないという母の最期にも覚悟を持たなくてはいけないと自分に言い聞かせ、がんセンターとの付き合いもそこで終わりだと思っていました。それだけではなく、父を見送った母から、「自分の役割りはもう終わった」「自分が生きる意味を見つけられるかどうか分からない」という言葉も聞かされていたのです。
ですから、「手術を受けようと思う」と言った母に、本当にいいのか!? と何度も聞き直したのです。手術は一度で終わりというものではなく、そこから闘病がはじまるのだという説明も含めて。
そして、手術室へ向かう直前まで、もし母が「やっぱりやめる!」と言っても、その思いどおりしてやらなくてはならないと思っていたほどでした。
両親の背中に見た「つれそう」という形
父と死別して生きる目的がなくなったという母の話しにも、父が望んだのだからと自分の意志を二の次にしても生きなくてはいけないのだと決断した母の思いにも現れていたのは、父が母の支えだったということでした。
実際には、介護認定を受けていた父は母の解除なしには生活ができない状態だったのですが、それでも父は母の支えだったのです。
私の両親は普段はどうあれ、互いに信頼し合い、支え合っていた - そんな「つれそう」という形のひとつであったことは確かだと思うのです。