AI が考えさせてくれる「言葉の品質」というもの、その変化
翻訳の世界では古くから「(産業翻訳の)品質はクライアントが作り込む」ということが言われていました。 今はどうでしょう? その当時にあった言葉や教えというのは生きているのでしょうか?
まだ「機械翻訳」という言葉が使われていた頃、 AI とか Deep Learning(深層学習)というような言葉も概念もなかった(知られていなかった?)とは言え、AI技術(の前身にあたる技術)の発達と仕事の質の変化ということを考えはじめてからもう結構長い時間が経っているように思います。
AI と一言で言って今思い出すのは、翻訳の仕事は AI にとってかわられるんだろうなぁという議論ですが、その議論があるからこそ、翻訳の品質というものに対する感覚がはっきり分かるようになってきたと感じています。
どう分かるようになってきたかというと…
- 翻訳の品質を作り込める・作り込もうとするクライアントと
- 作り込まない・作り込めないクライアント
に分かれてきたということ。
もう少し言い方を変えるとすれば、
- 原文の意味が分かればいい
- 原文の意味ももちろんだが、訳文としてきちんと読んで分からなければ意味がない
というようなニュアンスになるでしょう。
- 前者は、作りこまなくても意味は伝わる という考え方
- 後者は、作りこまなくては意味は伝わらない という考え方
という言い方もできるように感じます。
AI は仇敵か? アドバイザーか?
よく考えてみると、私たち翻訳にたずさわる側がこのふたつ - 言葉の品質に関わろうとするか・関われるか、関われないままで終わるかというクライアントのタイプ - の違いを認識できるようになってきたのは、AI に翻訳ができるかどうかという議論があればこそです。
AI技術が私たち翻訳にたずさわる者とクライアントの間に割り込む形になったことで、翻訳にたずさわる者の認識が高まったと考えるとすれば、AI技術の効能もまんざら捨てたものではないのかも知れません。
AI を、翻訳の仕事を奪う⁈ 仇敵のように捉えるのではなく、自分たち人間が行う翻訳の質を高め、”作り込む” という品質へのチャンスを与えてくれるものと捉えるとすれば、良い翻訳という判断基準が変わってくるだろうと思うのです。
良い悪いの基準が変わる?! という、言葉の世界の自然淘汰
産業翻訳の世界を10年20年と見てきて思うのは、翻訳を必要とするかどうかに関係がなく、産業界が発信しよう・伝えようとしているもの - 今風に言うなら、コンテンツ と言えばいいでしょうか - が変わってきているということ。
正確に言えば、発信しよう・伝えようとしているもの の比重・優先順序が変わってきているということです。たとえば…
- 製品の使い方とか注意事項、
より快適に使うためのヒントやアドバイス、
うまく使えないという症状の解決方法
などという、製品を使うための情報がメインだったのが昔のコンテンツ - 産業翻訳のターゲットも、取扱説明書に代表されるマニュアルに集中していました。いわば、「製品」に中心があったのです。
それが、
- 製品はどんな楽しさ、便利さ、快適さを届けるためものか
メーカーやブランドはユーザーにどんな快適を届けようとしているか
ユーザーではなく、ユーザーを取り囲む社内や世界に働きかけようとしているのか
というように、ユーザーやその社会や世界に働きかけようとする、いわば「価値」を伝えようとするコンテンツが増えてきていると感じるのです。
言ってみれば、だからこそなおさら、AI にそうした翻訳ができるか、そうしたコンテンツを作ることが可能か!? という、産業翻訳やコンテンツそのものを見る目が変わってくるのです。
あえて言えば、この 取扱説明書 か パンフレット かというのに近い発行される資料・コンテンツの(優先度の)変化が AI はもちろん、私たち人間の書く文章の良し悪しを決めていくのだろうと思うのです。