仕事は与えてもらうもの? 自分で作るもの?

仕事と自分の距離感のようなもの、感じることはありませんか?

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上司であり、部下であり… という立場に長くいて、どうもはっきりしなくなっているなと感じるのは、与えられた仕事として成果を出そうとしているのか、与える仕事として成果を確認しようとしているのかということ。

つまりは、今取り組んでいるものが上から受け取った業務命令なのか、その業務命令をさらに自分の部下に渡したものなのか、そのどちらとして続けていくべきかという、仕事への距離感のようなものと言えばいいかも知れません。

そもそも中間管理職たるもの、部下を使う・部下に仕事をさせるのが仕事じゃないか!? と考えれば、こういう疑問にはならないだろうと思います。
それがこの疑問になるという事は、”中間管理職たらざること” ?? を考えたり望んたりしているからだろうと感じます。

“中間管理職たらざること” って何のことでしょう?
そうなんです。「 部下を使う・部下に仕事をさせる」ことが自分の仕事なんだろうか? と考えているのですね。

そういうちょっと変な(?)疑問を持っているものですから、こんなドラッカー氏の言葉が何となく気になっています。

意思決定は意見からスタートする

意思決定についての文献のほとんどが、事実を探せという。だが、成果をあげる者は、事実からはスタートできないことを知っている。誰もが自分の意見からスタートする。

…『経営者の条件』

出典:P.F. ドラッカー氏 著 / 上田 惇生 氏 編訳・『仕事の哲学

ここで言っている「意志決定」というのは 会社の意志 というような意味だろうと思います。 だとすれば、いわゆる「業務命令」の出どころ、あるいはそのおおもとと言っていいでしょう。

「業務命令」が何をもとにしているのか - この言葉はどうも、意思決定者の発想とそれを受け止める者の間のギャップを言っているように聞こえてならないのです。

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本当は、「組織の方向性、意志を決定する者は、一般的な分析ではなく、自分が何をなそうとしているのか、その(自分の)意志に忠実になれ」ということではないかと思うのですが、組織(会社)の意志が実現できるかどうかというのは、意思決定者と実務者の間の意思疎通・共有化にあるような気がしている私には、「部下に仕事をさせる」という発想が、 意思決定者と実務者の間の意思 や意識のずれになっている気がしているのです。

中間管理職にあれば、そのずれやギャップをよりはっきり感じることができる - 言い換えれば、「板ばさみ」という存在になるかならないかは、上層部(意思決定者)と同じように、「自分の意見からスタート」しているかどうかにかかっているような気がするのです。

上から下に向かってくる「業務命令」をリレーする者? という意味の中間管理職 - その今までとは違う立ち位置を探す… もしかするとそんなことをやろうとしているのかもしれません。




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