グローバルコミュニケーション > カルチャーギャップ?
私が取り組んできた業界の仕事は、もともとは、仕事仲間あるいはクライアントと Face to Face - 同じ部屋、同じテーブルをはさんで向かい合い、紙とペンを使って進めていたものですが、今や何千キロも離れた海外の仲間とPCを通してお互いの声を聞き、ソフトウェアの動きをいっしょに見たり、ファイルを共有する手順を確認するなど、環境も手順も驚くほど変化してきています。
そうした変化は実は、私が実体を知らないだけで、もうどの業界でもあたり前と言えるほど普及してきているのかも知れませんが。
自分のまわりの技術って??
かつてはWindowsとMacintoshのファイルはダイレクトに交換し合うことができなかったのですが、今のCloud技術がつなぐ世界ではもう、その誰もが苦労して対応していたファイル形式というものもすべてではないにしろ、意識することもなくなっていますね。
Cloudに置いたファイルをリアルタイムにWindows, MacintoshあるいはiOSで扱うことができる - 私たちの仕事の環境で一番大きな変化は時間の短縮とファイル形式の共有技術にあるような気がしています。
テレフォンカンファレンスとしてネットワーク経由のコミュニケーションラインを接続し
ドイツのオフィスでMacintoshを使う仕事仲間が「このファイルにあるこの説明は書き直さなくて大丈夫だろうか?」と言い
日本のオフィスでWindowsを使う私が「さっきの条件を考えるとこう書き直さなくてはならないだろうな」と言いながらファイルを直す
以前どこかで、今日のような仕事の環境を夢見ていたこともあったような気がするほどですが、最近ちょっと、工夫というか、意識の切り替えのような人間の側の変化も必要ではないかなと感じることが増えてきました。
それは
- 文化の距離がこれまでにないほどに近づいているということ
そして - かつての作業方法の感覚に縛られたままで、新しいデジタル主導の環境や手順を理解することがなかなかできないという人たちに出会うこと
が少なからずあるということです
文化の距離が近づいているということの例
それはたとえばこんな場合です:
- 受け取った材料と仕上がり目標を照合して、作業手順や作業日程を日本側の日本人スタッフが準備する
- 実作業は当然、日本人スタッフが日本で行う
- 作業が終わったところで完成品をドイツへ送る
- ドイツのドイツ人クライアントは、示した目標通りに仕事が終わったか評価する
発注者と受注者のような、言わば分担のもとで進める仕事であれば、eメールを真ん中において向こうとこちら - 仕事の環境そのものはドイツのやり方、日本のやり方が混在することは少なかったのはないかと思います。もちろん、業界や仕事の分野による違いはあるだろうとは思いますが、前工程、後工程のように同じ側の作業を協力し合って進める場合も、そうした境目に変わりはありません。
ところが同じ工程、同じ材料、同じ時間を共有しながら進めるとなると、少々むずかしいことがあります。単なる人間関係とも、相手の言語が話せる話せないというものとはちょっと違うむずかしさです。

ネットワークでつないだデジタル環境での仕事だからでしょうか。要するに、海外の仲間と取り組む仕事をどう進めてゆけばよいかということになるのですが、そこに分化の違いがはっきりと現れることがあります。たとえば、
これまでの作業手順、作業方法はともかくとしても、必要なエレメントはすべて新しいシステムに盛り込まれているのだから、問題なく、しかもこれまでより効率的に作業を進め、これまでより精度高く結果を得られるはずと捉え、新しい手順を中心に仕事を捉えなおそうとする - それが欧米型。
一方、より効率的にと言いながら、これまでのこの品質を切り捨てているのではないのか・・・より高精度な結果と言うが日本人にとってはさほど重要と思われない要素をなぜそれほど重視しなくてはならないのか・・・と、良く言えば客観的に、悪く言えばマイナス思考で捉え、新しい手順をわきに置いて従来の作業手順を変えることに難色を示すのが日本型。
この両者の受け止め方、発想の違いを乗り越えるためのコミュニケーション - 日本人的に言えば「すり合わせ」 - に想像以上の時間がかかり、仕事の面では結果的に両者の間にフラストレーションが残る・・・そのフラストレーションを解消して次へ進もうとするのにまた時間がかかるという訳です。
どちらが良い悪いということではなく、同じ工程、同じ材料、同じ時間を共有しながら進める仕事だけに、そうした文化的なずれを感じる機会がお互いに増えているのです。
ストレスをなくし、やりがいを高めるには
作業手順に関する技術をどう捉え、理解するかという同じ枠の中でのずれであれば、調整はしやすく修正もできるのですが、
これまでアナログに進めてきて問題のなかった手順をなぜわざわざデジタル化しなくてはならないのか
そんな、想像力を働かせてもらうことのできない悲しいずれのときには、その調整や修正にかかるストレス、オーバーヘッドは並大抵ではないということになってしまいます。
デジタル化や仕事の変革が常に正しいとは言えないだろうとは思いますが、デジタル化を前にしてそうした抵抗に出会うことがあった時には、少なくとも相手には、工程が見えていない、材料が製品に変化していく過程がイメージできていないということに気がつく余裕が必要だろうと思うのです。
海外の仲間と仕事をしようとするのであれば、洋の東西を問わず、相手との間には文化という隔たりがある - そんな一歩引いた冷静でいたわりのあるコミュニケーションが必要ではないかと思うのです。