人工知能が教えてくれる私たちの個性?

どれくらい AI が分かっているだろう?

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10年20年では足りない長い歴史を積んできたという人工知能の研究の成果はすでに私たちの生活の一部になり、iPhoneやスマートフォンのディスプレイ上で使っている機能もあると知ってから、一生懸命読んでいる 『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)』。

人工知能の仕組みについての解説を読み進める中で、我ながら捉える方が飛躍しているだろうと思いながらも、自分たちの個性をどう捉えたらいいのか - そのヒントを見つけたような気がしています。

認識は複雑で高度な情報処理 - 私たちの脳のはたらき

そのきっかけになったのは、コンピューターによる認識には、記号(シンボル)とその意味を結びつける(グラウンドする)ことがとても難しいということを語っている 「シンボルグラウンディング問題」 と題された章のシマウマの話しでした。

たとえば、シマウマを見たことがない人がいたとして、その人に「シマウマという動物がいて、シマシマのあるウマなんだ」と教えたら、本物のシマウマを見た瞬間、その人は「あれが話に聞いていたシマウマかもしれない」とすぐに認識できるだろう。人間はウマの意味とシマウマの意味が分かっているからである。

これだけでは、いったい何の話しだろうと思うようなあたりまえの話しに思えますが、

ウマというのは、タテガミがありヒヅメがあってヒヒンと鳴く4本足の動物というイメージが人間にはある。シマシマというのは、色の違う2つの線が交互に出てくる模様だということも分かっている。したがって、それを組み合わせた「シマシマのあるウマ」もすぐに想像できるのだ。

と、ここまで読んだところで、コンピューターにシマウマを教えることの大変さが一挙に想像できませんか? そして、それは同時に、ウマをウマとして識別できている私たちの脳の機能のすごさだと思うのです。

馬としましまでできあがるのは

たとえば、「4本足の動物の中でも、豚ではなく、牛でもなく、猫でも犬でもないウマ」と言ったとしてもまだウマにはたどり着けそうにありません。

顔の形、足の形や長さ、ヒヅメがあって、人に飼われているウマは蹄鉄をはかせてもらっている。尻尾の色や形や動き、耳や目、口の形や動き、体の色や大きさ。さわったことがないとしても、柔らかそうな体・・・そうした特徴のすべてを認識し、さらにひとつにまとめてウマと認識している。そのひとまとめではじめて、クマやキリン、サイやゾウなど、どの4本足の動物とも違うウマをウマとして認識しているのですね。

馬 ウマはどこにいるかな
(c) Can Stock Photo

生まれて間もない、1歳に満たないわが子が、はじめて見たりさわったりするおもちゃを、自分に与えてもらったものだと覚えていく - そんな様子に立ち合った経験を持っている人はずいぶんたくさんおられると思うのですが、そうした様子を思い出すにつけ、話しかける親の言葉を聞きながら、触れている物の肌ざわりや色などを覚えていくことを思うと、私たち人間の脳の働きは言葉にはできないほど複雑で高度な情報処理をしているのだなと感じます。

複雑で高度な処理機能 - もちろん、認識というような単一の働きだけでなく、感情など別の精神活動も同時にこなしているわけですが - そうした脳のはたらきの一つである認識をコンピューターに覚えさせようとすることがこれほどの時間と労力を必要とするものなのだと知ると、自分の脳にこれまでとは違う親しみ、愛おしさのような感情を覚えます。

そして、 「知能の社会的意義」 という章がとてもすてきなインスピレーションを与えてくれたのです。

複雑で高度、だけどみんな違う

シマウマの話しで語られているように、認識ひとつをとってもとてつもなく複雑で高度・高速な情報処理を行っている私たちの脳は、一人で存在しているわけではなく寄り集まって社会を構成し、社会としてみんなで世界を認識している? - そんなふうに読める話しです。

そう考えると、人間の社会がやっていることは、現実世界のものごとの特徴量や概念をとらえる作業を、社会の中で生きる人たち全員が、お互いコミュニケーションをとることによって、共同して行っていると考えることもできる。

しかも、みんなと同じ教科書を使って同じ教科を学んで同じ知識を持とうとしても得意不得意があるし、同じ世界観を持つことにはならない - 一人ひとりがみんな違う。それを否定する人はきっといないでしょう。

それぞれに複雑・高度な情報処理の能力を持っているけれど、その能力を存分にはっきできる世界がみんな違う。たとえて言うならば、一人ひとりが見た世界・感じた世界をみんなで持ち合って私たちの世界観ができあがっているとしたら、それだけで自分の存在価値を確認できそうだと思ったのです。

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たとえば、社会として、みんなで作り上げている世界観をトンボの複眼に置き換えてみると、私の脳が捉え、認識している世界はその複眼のひとつ。そのひとつの映像が欠けると、みんなで見ている世界観の一角が欠けてしまう - そんなイメージです。自分の個性を複眼のひとつに置き換えて感じてみたいと感じるのです。

国語•算数•理科•社会、そんな言葉を意識して過ごした時代がありますが、あれは基礎教育 - つまり、その後の進路を選ぶときのための準備期間だったと言えるでしょう。そしてその後、高校に進むころになって、自分の得意、不得意をかなり強く意識するようになっても、古文といっしょに物理や化学を勉強していた - あれもやはり、その後の進路を選んだときの一般教養を保つためだったと言えるように思います。

長い時間をかけて進める私たちの学習は、今見ている世界観を変えていくのでしょうか。たとえば、私たちが見たり、聞いたり、読んだり、感じたりするほどに、画像の解像度を上げ、ピクセルあたりのドット数を上げていくように「現実世界のものごとの特徴量や概念をとらえる」ことにになるのだとしたら、普段の何気ない時間も大切に過ごさなければと思います。

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